森田一義氏に捧ぐオマージュ妄想企画 
    こんなテレビ番組があったらイイナー
     『カミダノミ☆タモリ倶楽部』
     第86回 「夢の新幹線架け橋」


 こんばんわ。流転の番組企画の放浪人・タモリです。
 1970年に全国新幹線鉄道整備法が公布されました。
 この法律は、新幹線の大まかなルートを定める「基本計画」、走行方式や建設費の概算などを定める「整備計画」、具体的な工事計画を定める「工事実施計画認可」の三段階で新幹線建設の手続きを進め、全国的な高速鉄道網を構築することを目的としていた。

 まずは地図を見てください。基線の概略図の部分図です。
   CCF20120106_00000.jpg
 設計当時はここに「フル規格の新幹線を通し吉野川沿いをどんどん西に向かい阿波池田(現三好市)を抜け愛媛を通り桜三里をトンネルで抜けて松山さらに佐田岬半島を経由し海底トンネルで九州とも結ぶ」構想を持っていたのであった。
 しかし、後藤田さんが「うん」と言わなかったらしい。
 でも、諦めきれない公団はヒッソリ黙って(テナことは無いが)

  大鳴門橋・道路下に CCF20120106_00001.jpg
  鳴門側にはトンネル 1112968.jpg

 その上、淡路側の道路高架橋は、面白いことに橋脚がL宇の形をしている。これは将来、道路車線を現在の四車線から六車線に拡幅するためのものだが、その中央に新幹線を導入することも想定して設計されている。
  それがコレだ。 CCF20120107_001.jpg

 なお、本州側の明石海峡大橋は新幹線建設のめどがたたないことから、建設費を節約するため道路単独橋として開通してしまった。このため四国新幹線は明石海峡か細流海峡に海底トンネルを建設して大鳴門橋につなげる構想に変わったが、その調査も二〇〇七年(平成一九)度を最後に打ち切られている。

 列車の窓から渦潮を見ることは、はかない夢で終わってしまった。

 しかし、「渦の道」と呼ばれる遊歩道が鳴門側の新幹線スペースの脇に設けられたことである。そのため、「鳴門の渦潮」で知られる鳴門海峡が一望できる展望施設として整備されたものだが、新幹線の導入スペースも間近で見ることができるようにもなったのである。


   「夢の新幹線架け橋は幻だったのであろうか?」



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     第84回「頸城鉄道線線を歩く」
   ゲスト:11月26日に牽き続き歩鉄の達人


 まずは「頸城鉄道線」の基本データと歴史のお勉強です。

 区間(営業キロ): 新黒井 - 浦川原 15.0km  駅数:10

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 1914年(大正3年)10月1日 新黒井 - 下保倉間 (13.8km) が開通
 1916年(大正5年)5月5日 下保倉 - 浦川原間 開通により全線開通
 1927年(昭和2年) 国鉄十日町線(現飯山線)の開通により、
          松代方面からの乗客が減少
 1931年(昭和6年) 国鉄上越線の開通によってさらに減少拍車
 1946年(昭和21年) 鉄道部門の営業収支が初めて赤字計上。
         これ以後、黒字に転化することは廃止まで無かった
 1971年(昭和46年)6月1日 鉄道部門を完全に事業廃止

 なお、1968年(昭和43年)10月1日の部分廃止によって国鉄線との連絡がなくなった後、『交通公社の時刻表』(現『JTB時刻表』JTB発行)や『ダイヤエース時刻表』(現『JR時刻表』交通新聞社発行)をはじめとする全国版時刻表から当路線の路線図・時刻・運賃が一切掲載されなくなった。それから廃止までの約2年半の間は、時刻表の上では「幻の鉄道」と化していた。

 頸城鉄道の夜明けからの鉄道資料はクリックでごらんください。


 左写真:百間町駅跡「頸城鉄道発祥之地」石碑
P1270549.jpg P1270544.jpg
        右写真:旧頸城鉄道株式会社本社跡の軽便歴史資料館
 

  さて、ここからは歩鉄達人のレポートをごらんください。
     廃線探索 頚城鉄道線を歩く

 JRE黒井駅近辺には旧頚城鉄道の線路がそのまま使われている所もあり、そこだけを歩く一行であった。




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   第83回「ポストをひたすらマッピング」


 年末が迫っております。暮の恒例風物詩を訪ね歩きたい処なれど、番組ロケ費用がありません。 なので、今日は事務所の一画をお借りして、スマートフォンとパソコンで旅に出かけます。

 まずは、「ポストをひたすらマッピング」 と打ち込んでください。

 全国186753ヶ所ある郵便ポストの85%のの内159979ポストが掲載されている郵便ポストマニアファンの集まるサイトです。

 右上に
 マップ・リスト・ ブログ・写真・タグ・データ・コメント・ユーザー
                          があります。

 「マップ」をクリックして、「古河」と入力して下さい。
 古河庁舎前・古河市役所古河支所が正式名か?
 古河郵便局の建物写真はあれど、ポスト写真は無かった。

 さて、あなたの行って見たい場所を検索してみてください。
 思い出の地や近所のポストを探して見てはいかがでしょうか。

 「リスト」「ブログ」にも同様に膨大な書き込みがあります。

 「写真」をクリックして変り種ポストを見つけてはいかが?

  Ctoukixyou1.jpg Csinagawa2.jpg

 どこのポストか判りますか?
 わかった人はポストマニア? 鉄道オタク?
 それとも、オイラブログのファンでしょうか。
 両方とも当ブログの過去に取り上げていました。

 さて、和歌山県すさみ町の海中ポスト情報は?

 これから現地に確認に行ってきます。潜ってきます。




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    第82回「絵葉書の製作年代を推理」
     ゲスト: 古い絵葉書収集家手嶋氏


 ここに1枚の古い絵葉書があります。
 「いつごろ製作され発売されたか」の年代を推定してゆきましょう。

        ehagaki1.jpg

 人出の多い割には、縁日・風俗としては詰まらないモノで、観光・風景としは特徴がありません。
 なんか白黒写真に小学生みたいなセンスで色が付けられてますな。非常に質の悪い絵葉書です。

 まぁ、絵柄のセンスはワキに置きましょう。
 風景を特定する推理考察ではありません。

 まずこの絵葉書が使用済みで消印があれば、その消印から投函日がわかります。しかし、裏返すと真っ白でこんな感じ。

         ehagaki2.jpg

 「萬国郵便聯合端書」とありますが、これはかつての官製葉書を意味しています。日本国内で葉書が販売開始になるのは明治6年(1873)ですが、明治10年(1877)に万国郵便連合(UPU)に加盟しているので、このハガキは1877年以降だと判明します。

 その下に英語で「The Address only to be Written on this Side.」とあって、要はこの面には住所しか書いてはいけないと指示されています。かつて通信内容は白い面には書けず、すべて写真面の隙間に書いていましたが、明治40年以降、通信欄が認められました。

 ちなみに、表面の通信面の仕切り線で判断することが出来ます。
  hagaki01.jpg
 ・通信欄の罫線がない
   → 明治6年(1873)〜明治40年(1910年)3月まで
 ・通信欄の罫線が3分の1
   → 明治40年4月〜大正7年(1918)3月まで
 ・通信欄の罫線が2分の1
   → 大正7年4月〜

 「郵便はがき」の文字で判断する
 戦前は右から左へ文字を書くのが普通だったので、「郵便はがき」と左から右に書かれていればすべて戦後です。
 ・「きかは便郵」明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月
 ・「きがは便郵」昭和8年2月以降、「はかき」に濁点がつきました
 ・「郵便はがき」戦後

 貼られた「切手」で判断する
 ・菊切手 =明治(1900〜1908年)、特に水色はかなり初期
 ・田沢切手=大正2年(1913)〜昭和12年(1937)
 ・乃木切手=昭和12年4月〜昭和21年(1946) 
   なお、国内のはがき料金は以下の通りです。
    ・明治32年4月〜 1銭5厘
    ・昭和12年4月〜 2銭
    ・昭和19年4月〜 3銭
    ・昭和20年4月〜 5銭

 しかし、今回の絵葉書は未使用で、郵便の発達配達制度から得られる情報は皆無です。
 ですが、写真印刷から判定推理してみると、

 基本的に戦前の絵葉書はモノクロですが、だいたい写真の印刷には2種類あります。1つは明治21年(1888)に小川一真が実用化したガラスによるコロタイプ印刷。もうひとつは同じく小川一真が明治27年(1894)に実用化した銅版(または鉛版)による写真印刷。
 違いはコロタイプが滑らかで濃淡がはっきりしてるのに対し、銅版は拡大すると網目になっている点です。
 拡大してみると、このハガキはコロタイプ印刷だとわかります。
 
 色と印刷で判断する
 ・網点のないモノクロ(コロタイプ印刷)
   → 1888年〜(色が塗ってあれば1915年くらいまで)
 ・モノクロの網点は銅版か鉛版の写真印刷 
   → 1894年〜明治時代終わり(1910年くらい)まで
 ・カラーの網点があればオフセット印刷  
   → 大正中期(1918年くらい)以降、ほとんど昭和に入ってから

 当然、ほかの似たような当時の古い写真からも推定されます。
   左上の尖がった塔棟に注目 ehagaki9.jpg
 これは明治25年(1892)に建てられた浅草の「梅園勧工場」です。勧工場はデパートの前身みたいなものです。
 しかし、浅草寺の五重の塔との位置関係でいうと、同じブロックにある明治27年(1894)に建てられた「共栄館勧工場」が見当たらない為、写真は1892〜1894年の撮影ではないかと判断できます。

 ですが、私製葉書の制式が告示されたのが明治33年(1900)なので、官製ハガキを除くと、絵葉書はすべて1900年以降のものです。


 長々と延べてきましたが、タモリの結論断定は。
 「この絵葉書は私製葉書解禁から通信欄の罫線解禁までのもの。
  つまり、1900年から1910年製作の手彩色絵葉書と認定」






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   第81回「世界唯一、琵琶製作を覗く」
    ゲスト: 四代目 石田不識さん
     (文化庁選定保存技術認定師)


まずは、正倉院御物「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」

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正倉院の宝物は9000件以上の歴史的文化遺産が残されていますが、外見の建物のみが国宝なのだが、蔵個品はすべて国宝に指定されてないのである。


   isida.jpg

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 琵琶は7・8世紀頃、中国から日本に入った。
 半開の扇もしくはイチョウの葉の形に似た撥で絃を弾奏するが特徴。
 五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、唐琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶などの種類がある。
 それぞれの楽器は特有の音楽を持ち、その世界の中では単に「琵琶」と称される。またこれら異種の琵琶同士が合奏されることはまずない。また、琵琶を主体とした音楽を「琵琶楽」と総称する。


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  「螺鈿紫檀五絃琵琶」?  触ってみたいですねー 
   どんな音色を撥っするのでしょうか?
   いえ、保存状態を確認してみたいですネー。

 国宝でない理由は、宮内庁が十分な保存と管理をしているからであり、文化財保護管理を所轄する文部科学大臣の指定を受け付けていないのである。




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    第80回 「廃線の魚沼線を歩く」
   ゲスト:歩鉄の達人 (彼のHPはクリック)


 まずは「魚沼線」の基本データと歴史のお勉強です。

 区間(営業キロ): 来迎寺 - 西小千谷 12.6km  駅数:5

1911年(明治44年)9月14日 軌間762mmの軽便鉄道で開業し全通、来迎寺・片貝・高梨・小粟田原・平沢(1954年廃止)・西小千谷を設置。
1922年(大正11年)6月15日 魚沼鉄道が国有化され魚沼軽便線となる。
1944年(昭和19年)10月16日 全線 (13.1km) を休止。
1954年(昭和29年)8月1日 762mmから1067mmに全線を改軌し再開。
1984年(昭和59年)4月1日 全線 (12.6km) を廃止。

 上越線に翻弄された魚沼線の歴史はここをクリック

 来迎寺駅前にて柳観音に旅の無事を祈願する一行。
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 まずは、開業80年記念碑と魚沼線発着の0番線。
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 さて、ここからは歩鉄達人のレポートをごらんください。
  廃線探索 旧国鉄魚沼線 その1
  廃線探索 旧国鉄魚沼線 その2
  廃線探索 旧国鉄魚沼線 その3

  OMAKE 資料
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 西小千谷駅構内は「ぽっぽの里公園」として整備されており米所新潟の魚沼産の地酒で宴会を始める一行であった。




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     第79回 「祝、鉄道電化の日」


1890年:上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会で日本初の電車の運転
    が披露された。
1895年:京都で日本初の電車による営業運転が開始された。

1899年、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線)の六郷橋駅 - 川崎大師駅2.5 km間が、初の標準軌を採用した電気鉄道として開業。川崎大師への参拝者を運ぶ目的で建設された。
1904年、普通鉄道としては、甲武鉄道(現在のJR東日本中央本線)飯田町駅 - 中野駅間が、蒸気運転から一部移行する形で電化された。

1956年(昭和31年)11月19日、東海道本線の米原-京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了した。これを記念し、1964年(昭和39年)に鉄道電化協会がこの日を「鉄道電化の日」に制定した。

 タモリは。
 1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。
 その後学費未納のため抹籍処分となる。
 夢破れ、金無くなり、1968年に帰郷。
 1975年6月に上京を果たすが何度東海道本線を乗ったことか・・・

電化されてゆくことは、無煙化が進み蒸気機関車が減少するにつれてSLブームが過熱し、鉄道ファンのモラルの低下が指摘されるようになった。もはや日常化が当たり前の無法地帯化している。
 国鉄の蒸気機関車は1975年に定期運行を終了した。



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     第78回 「ダイヤモンド富士」
    ゲスト 田代博(筑波大付属校教諭)


 東京発の新幹線では右側に富士山が見れます。静岡を過ぎ、在来線の安倍川駅から用宗駅の約1km15秒ほど左側に見えるの鉄チャン富士は有名な話です。
 山手線で唯一明瞭に見える高田馬場~目白間の富士山が、2009年、消えていました。

 関東・東京では富士山に沈む太陽を見ることが出来ます。
 いわゆるダイヤモンド富士と称し、マニアがたくさんいます。

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  富士山をモチーフにしたネクタイを外してまで篤く語る田代氏。
  (田代博氏のホームページには種々の富士山満載でクリックを)

     天声人語 1994年10月10日


 秋の空が澄んでくると、冬にかけて、楽しみが一つふえる。通勤の途中、きまった場所で、富士山をくつきりと望める日が多くなるのだ。春と夏は、こうはゆかない。

 「一度も登らぬばか、二度登るばか」などというが、見る分には、富士山は何度眺めてもすばらしい山である。端正で優雅なさまが、えもいわれぬ風情だ。海外から飛行機や船で日本に近づく時、雲海の上にそびえる富士の頂は、大きな門標のように見える。

 神奈川県立瀬谷西高校(注・当時)で社会科・地理を教えている田代博さんは、かつて高校生に、写生ではなく、富士山の絵を措かせたそうだ。すそから山頂にいたる線の角度をどのくらい正確に措くかに興味があった。ほとんどの生徒の絵が実物より急角度だった。頭の中では北斎のように描いているらしい。

 そそり立つ富士山は、どのくらい遠くから見えるものだろう。田代さんが東北電力の広報誌『白い国の詩(うた)』十月号に発表した調査によると、最も遠いところは和歌山県の那智山周辺、次が福島県の日山(ひやま)だという。富士山が見えるのは十九の都県に及ぶというから(注・現在では二十府県)、かなり広い範囲である。

 富士見町、富士見峠のように「富士見」がつく地名は、全国三十一の都県にあるそうだ。実際には富士山が見えない県にもあることになる。これは地元の「○○富士」の場合もあろう。見えないが「富士見たい」という意味の「富士見台」もあるとか。

 田代さんと、富士山が好きな仲間たちは、パソコンを使って「富士山可視マップ」をつくっている。画面の地図上に、富士山が見える地域と見えない地域が現れる。今月二十日、パソコン通信ニフティサーブに「山の展望と地図のフォーラム」を発足させる。

 机上のコンピューターで山の可視圏などを割り出し、足で現場に赴く人々。「富嶽三十六景」のころとはまた違う富士の味わい方があるらしい。



 暮れなずむ秋に隠れゆく富士を見ながら銘酒富士山を飲もうと集まったタモリ一行はゲストに呼んだ田代氏を差し置いて宴会を始めるのであった。



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    第77回 「越後線にスポットライト」


 上越新幹線に乗り、東京駅からノンストップ97分で新潟駅へ。
 十数種の駅弁から好みを選び、カップ酒とともに越後線に乗り換え。
 
 吉田駅まではいわゆる普通の地方路線らしい風景が流れます。
 その昔、岩室温泉の冬季閑散期には近所の農婦たちの枕バイトもあったというのどかな噂も今は笑い話です。

 吉田駅から弥彦線で4.9キロの弥彦駅から弥彦神社へ。
 いわずと知れた越後国開拓の祖神・伊夜彦神を祀る越後国一宮です。
 競輪場や美術舘もあり、ロープウェイで山頂公園に登っても今一。
 観光スポットが古いです。 今どきのニーズとかけ離れています。

 寺泊駅・寺泊港から46km佐度赤泊港65分の高速船が走ってますがー

 数年前ジェロ『海雪』の舞台出雲崎町ですが、「語り部」が少ない。
 年の差婚が話題の昨今ですが、「良寛と貞心尼」の微笑ましい純愛。
 街並みを公開してのボランティアとの触れ合いが行なわれてます。
 日本のシェア8割を誇る磯野紙風船製造所へ遊びに行きましょう。

 1912年(大正元年)開通の越後線は信越本線からの迂回運転としての側面もありますが、低コストの直接吊架式が採用されており、最高速度が85km/hに制限されており、ほとんど機能してないのが現状です。
 また、越後平野・日本海海岸寄りに走っていても、海・海岸線等の風光明媚の路線でもありません。
 国道が整備され、鉄道への依存度は低く減りつつあり、赤字路線への転落・廃止もありうるのです。
 しかし、沿線住民・利用者にその危機感は無いのである。

 全国に十数箇所しかない0番線に到着した柏崎駅。
 貞心尼終の庵が柏崎です。
 1872(明治5)年3月19日〕、孝室貞心尼寂滅。
 辞世の歌は
 「来るに似てかへるに似たり沖つ波 たちゐは風の吹くに任せて」

 また、佐渡情話の「お光吾作」の恋愛悲劇に触れましょう。
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 市内では街輿しの一環として「鯛茶漬け」を食しましょう。
 飲兵衛さんには原酒蔵の「越の誉」はいかがでしょう。


 駅数32。 柏崎駅 - 吉田駅 - 新潟駅 83.8km  約2時間。
 越後線の旅はいかがでしょうか?
 脚光の鍵は地元民の熱意にほかならないことを確認した旅でした。


 



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      第76回 「超写実を検証」
     ゲスト:ホキ美術館館長 保木将夫

 
 日本初の写実絵画専門美術館である千葉のホキ美術館に来ています。
 まずは館内の展示品観賞です。

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     五味文彦 《樹影は蒼く匂う》 2011年

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    大畑稔浩《石見の海―陸に上った舟》 2011年
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               藤原秀一《石見海岸》2011年

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     島村信之 《ロブスター(戦闘形態)》 2010年

 ギャラリー1では26作家の写実絵画約60点の「時を超えて ― 静物と風景画展」を展示公開しております。

 この美術館は1対1で写実絵画と向き合える場所を作り、公開したいという、保木館長の純粋な思いから生まれました。

 館長の保木将夫氏 WHO?
 医療用不織布製品、滅菌用包装袋(メッキンバッグ)及び各種医療用キット製品のトップメーカーである株式会社ホギメディカルの創業者であり、現在は第一線を退き写実絵画の発展に私財を資しております。

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              野田弘志 《オロフレ峠》 2010年

 特に日本写実絵画の第一人者である野田弘志氏とは親交も深く、美術館主催としては珍しい「2011秋の北海道 野田先生のアトリエ訪問 & ザ・ウィンザーホテル洞爺」の2泊3日の旅行ツアー(198,000円)を組んで参加者を募集しております。
 また、13時東京駅発の貸切バスで「ホキ美術館のすべてを満喫する夜のディナーコース」も企画中。


   野田弘志 《 蒼天 》 2008年
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 超精密緻密の本物実物を見たくなりませんか?
 描かれた現場、北海道の大地に立ってみたいと思いませんか?