2017.04.25  鳥瞰絵図
 村松昭をご存知でしょうか?
 1940年、市川市に生まれる。 桑沢デザイン研究所勤務。そのかたわら1972年頃より絵地図・鳥瞰図(ちょうかんず)を作りはじめる。
 現在は東京都府中市にショップ兼アトリエを構え在住。

 1973年の深大寺散策絵図(47×64)を始めとする7・80点を描いてます。 ほかには、本雑誌などの挿絵や俯瞰イラストを精力的に活動しております。

 圧巻は2015/3/1に発売した「北陸新幹線鳥瞰絵巻」
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 20cmx300cm(蛇腹折り・30頁) レールファン必見の付録つき。
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 今尾恵介:著 松村昭:画 「東京の鉃道発達史」(JTBパブリッシング1300円)が発売されてますが買って読みたいですね。


   OMAKE    2009.05.12  鳥になりたい



2017.04.15  桂月
   引っ越し前の予約書き込みです。

 松林桂月(1876年8月18日 - 1963年5月22日)は、山口県萩市生まれの日本画家。
 「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。(Wikipediaより)

  ニューヨーク万国博覧会に出品の「春宵花影(しゅんしょうかえい)」
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      (昭和14年   墨画・絹本・軸・1幅   119.3×134.5)

 昭和30(1955)年  「朝陽桜花」
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 長州出身のせいなのであろうか?官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。 南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われた人物です。

 昭和37(1962)年  「白梅紅梅」 (左隻に紅、右隻に白)
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 白梅・紅梅の一対の屏風でありながら、構図的にはまるで呼応しているようには見えない点が興味深い。 そうだ。

 1947年日中文化協会理事、1948年日本美術協会理事、1949年日展運営委員会常任理事、1954年同理事、1958年文化勲章受章、文化功労者、日展顧問、1961年日本南画院会長。 死後従三位勲二等旭日重光章受章。

  「怒涛健鵰」 明治30年    「威振八荒」 昭和2年
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 そして、重鎮が何度も同じような構図で描く富士山はー
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 しかし、オイラは中央に背を向け、野に生きた田中一村や平坂芳文を忘れないし彼らに惹かれます。


2017.03.26  お吉物語
 2006年11月、文芸社発行の竹岡範男(宝福寺住職)著作「唐人お吉物語」を興味深く読み終わりました。
 恋人?鶴松やハリスとの交流もさることながら、オイラはふたりの男に注目です。

 伊佐新次郎。 下田奉行配下の武士。
 芸奴・お吉を説得させた小役人であり、ハリス江戸への下向に付き添いお吉の相談後見人です。 明治になり、中央役人として出世するがお吉のその後が気がかりで消息を探し、当時を謝罪。 されど、お吉は過去のことと切り捨てる。
 本作は小説ではないため、二人の思いや関係性は明確ではないため、ちとネットで調べましたが納得できる事項持柄が見つからず気になります。

 松浦武四郎。 北海道命名の役人。
 ハリス離日に伴い、お吉は下田へ帰郷の途に伊佐の部下?として同行していた松浦の紹介斡旋にて京都の芸奴となる。
 唐突に松浦とお吉が結びつくのだがナゼ?がフツフツと湧き上がる。
 その松浦は1868年(明治元年)「函館府判官事」に任官。「蝦夷」を『北海道』と命名。 アイヌの文化人権保護を訴えるが無視され、2年で退官。  以後、「馬角斎」(←なんと読まん)として趣味道楽に生きる。


 さて、お吉だけがクローズアップされるが、実はハリスの通訳のオランダ人ヘンリー・ヒュースケンにも待妾が居たのである。 名をお福と云い、芸奴とも町娘だったとの記述が残ってます。
 20代の青年ヒューケンスは好色であり、数人の馴染み妾を持ち、子(男の子か?)もいました。
 彼は1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去した。
  彼の墓参りは2013.07.11だった。


2017.03.20  時の天空
 四横綱による生き残りサバイバル相撲も中日を過ぎてー

 そんな場所前の1月31日 、時天空さんが悪性リンパ腫のため死去。37歳だった。

 幕内から十両の地位へ陥落した2016年1月場所前、悪性リンパ腫で闘病中であり、「できたら1回、土俵に上がりたい」と願い、抗がん剤治療で病と闘った。
 東十両#9、西幕下#6、西幕下#46、西三段目#26、東三段目#87
 2016年8月25日、復帰を断念し引退発表していた。

 オイラは熱烈な相撲ファンではないが、そのしこ名のインパクトと悪性リンパ腫死が重なりブログネタに書いてみました。

 37歳の若さで病に倒れるスポーツマンがいれば、50歳で現役プロのサッカーマン・キングカズが12日のJ2リーグ第3節・ザスパクサツ群馬戦で今季初ゴールを決めた。  アッパレなり。まだまだ、更新することでしょう。

 なにはともあれ、健康で動けるうちが一番。 日々の安寧に感謝。



2017.03.04  狂斎だー
 千円札2枚を握りしめて、電車に飛び乗りました。
 行先はお台場のガンダム。防衛任務を解任されるとのこと。
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         (詳しくはオイラブログ2014.10.24へ飛びます)

 しかし、渋谷駅に着いたら、懐かしき暁斎の画展が飛び込んできた。


 オイラが埼玉・蕨市の「河鍋暁斎記念美術館」を行ったのは9年前。

  01kyousai.jpg このオッサンが能狂言が好きだったそうな。
 と云うことで、千駄ヶ谷の能楽堂の「暁斎が描く狂言の会」なる催し物で野村万作の「三番叟(さんばそう)」を観たこともありました。


  

 渋谷・東急文化村の「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎!世界が認めたその画力」を見てきました。
 まぁ、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)なんて知らないと言う人も多いとは思いますが幕末明治の絵師です。
 興味のある人は〈ここをクリックして展示の章解説〉をごらんあれ。

 オイラの注目は・・・・・

 暁斎51歳で入門したジョサイア・コンドル(Josiah Conder)を今回の所有者が英国人であったので、あえてジョサイア・コンダーと英語読みに近い名を使っていたことに感心しました。

 暁斎の動物・鳥などの中でも、「鴉」が20幅が展示されていた。

 江戸ビイキの暁斎は「貴顕を嘲弄する絵師」として明治政府から睨まれ、自らも狂斎と名乗り、鯰を役人・蛙を庶民と見立て、多くの画を残しておりました。

 鐘馗さんも多かった。 威厳高く、時にはユーモラスに。
 閻魔さんも暁斎が描くと太夫の色香に惑わかされたり。
 多彩なタッチはノホホンとさせてくれました。

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                そんな展覧会を観てきました。

2017.02.25  お吉
 「唐人物語」Cover


 下田・宝福寺です。 お吉桜? たぶん後世の植樹による桜を「お吉桜」と命名したのではないか?
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 水谷八重子他の寄進で造られた2代目の墓は恋人?鶴松と並んでました。 本来の墓は文字もすり減り読めもしません。
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 1857年(安政4年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。
 (Wikipediaには3か月で解雇と書いてあるが、ハリス帰国の5年間の奉公であった。 また、本人写真も別人らしいです)
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 前田青邨画伯のお吉物語(16画)がありました。
 また、井上剣花坊の『アメリカの ぬらした袖も 土に成り』や新渡戸稲造の『から竹の浮名の下に 枯れはてし 君が心は大和撫子』
 西条八十は『駕籠で行くのは お吉ぢゃないか 下田港の 春の雨』と昭和二十八年に歌詞の一節を書いたものなど、多くの資料が展示されておりました。

 唐人お吉こと斎藤きちは 1841年12月22日 - 1890年3月27日、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。
 竹岡範男著「唐人お吉物語」を買い求めてきました。 幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人の生涯記をジックリ読んでみましょうか・・・


   OMAKE  オイラブログですが・・・
   
     タウンゼント・ハリス 江戸へ行く
     ヘンリー・ヒュースケンの墓参り




2017.02.12  椎名恵
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   (2017/02/11 19:02  いつもの屋上で携帯にて)


 ほこりにまみれたCDが数枚、放置されてます。
 オイラの「遠い記憶」に椎名恵の歌声が澱みとなってます。

 80年代半ば、バブリーを予感させる暮れ時、子猫を拾ってきた。
 二つの顔を持つ古代ローマ神話のヤーヌスの娘と名乗るフシギチャンと奇妙な同居生活が始まった。 分厚い神話の本となぜか椎名恵のCDに囲まれた異空間の日々。
 「ねぁ、コンサートに行かない?」と五反田のゆうぽうとホール。
 そして、居なくなった。  ただ、それだけだった。


 椎名恵なんか知らないって人が多いとは思いますが、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』を歌っている歌手です。と書くと「アァあの人ね」と気づくマニアがいるかも知れません。

  



 1980年公開の「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」を借りてきました。
 父の仇であるはずのベイダーから、「私がお前の父親だ。」と衝撃の事実を知らされたルークは、絶望のあまり絶叫する。ベイダーは「お前ならやがて皇帝(ダース・シディアス)すら倒せる。仲間になれ。さすれば、銀河系を父と子で共に統治することができる」とルークをフォースの暗黒面(ダークサイド)に誘惑するが、これまで信じてきた全てを打ち砕かれ、絶望に支配されたルークには・・・

 と、相変わらずの唐突なるどんでん返しのアメリカンコミックらしいエピソードが繰り広げられておりました。

 1983年公開の「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」を引き続き見ました。 
 ルークは強靭な意志で自分の中に沸きあがろうとした暗黒面の感情を克服すると、自ら自身のライトセーバーを投げ捨て「あなたの負けだ皇帝。僕はダークサイドには堕ちない」と皇帝の甘言を拒絶し、「僕はジェダイだ。かつて父がそうであったように…」との言葉を突き付ける。その姿はかつて皇帝に唆されるままに無力化したドゥークー伯爵を葬った若き日のベイダーとは違う、まさしくジェダイの騎士としての言葉であった。暗黒面に引き込めないルークは脅威以外の何者でもないと、皇帝はフォース・ライトニングを浴びせかける。憎しみや闘いというフォースの暗黒面につながる事を放棄したルークは、なす術も無く皇帝から一方的に攻撃を受け見る見る衰弱していくが、その最中も父であるベイダーの良心に必死に呼びかけ続ける。フォースの暗黒面の誘惑と甘言に負け、メイス・ウィンドゥらジェダイを裏切った若き日の自分とは全く違う、ルークの確固たる意志を示した騎士としての決断と、父の良心を信じる必死の叫びが、ついにベイダーの心を強く打ち抜き、その善なる魂を呼び戻す。ベイダーは捨て身の覚悟で皇帝を抱え上げると、皇帝の必死の電撃で自身の生命維持装置を破壊されるのも構わず、デス・スターの反応炉に続く中央動力ケーブル坑に投げ落とし、遂に皇帝を葬り去る。「クローン戦争」以来続いた銀河大戦はこれによって終止符が打たれ、ベイダーはフォースの暗黒面に囚われた「シスの暗黒卿」から「ジェダイの騎士」へと帰還する。だが「アナキン・スカイウォーカー」へ戻ったベイダーの身体は、皇帝が最後の抵抗に放った電撃で瀕死の重傷を負っていた。ルークは善なるジェダイの騎士としての心を取り戻した父の願いでベイダーの黒いマスクを外すと、戦傷と火傷で傷付いた素顔で息子の顔を見ることが出来たアナキンは、自身が間違っていたことを娘へも告げるように頼み、満ち足りた様子の穏やかな表情で息を引き取った。ルークは打ちひしがれながらも、父をもう孤独にさせまいという一心で、その亡骸とともに、インペリアル・シャトルで崩壊するデス・スターから脱出した。

 と、映画の一部のみをピックアップして書きましたが、壮大な「遠い昔、遥か彼方の銀河系」の物語は親子愛と人の心に潜む善悪の戦いを描いているのであった。



2017.01.26  堀之内寄席
 若手?の落語を聴いてきました。 堀之内寄席です。
 現在、東京に500人、大阪に300人、女性が50名弱だそうだ。

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 昨年6月、二つ目になった三遊亭遊かりさんがトップでした。
 落語演目「薬缶」をベースに軽快な愚者の頓智問答が続きます。
 師匠の遊雀よりも小遊三さんにかわいがられているのか? 孫弟子がガンバっておりました。

 ラバウル小唄の出囃子にのって登場は笑福亭竹三さんです。
 東京に拠点を持つ笑福亭鶴光の弟子ながら関西ネタ?「木津の勘助」を織り交ぜ熱演。
 仲入り後、瀧川鯉八さんです。
 オリジナルで勝負。なれど、空回り?気味でオチも無かった。

 皆、二つ目さんで真打を目指してます。
 なれど、鯉八さんの中に出てきましたが、「パチンコ・バクチはやりません。何せ家業がギャンブルなのです」の通り、落語家で生計をたてるには苦しいでしょうが頑張って!とエールを贈りたい。


 OMAKE  古今亭志ん朝 「堀の内」 を聴いてみませんか?
   (静止画)



2017.01.21  修羅走る
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 歴史・時代小説家なら誰しもが書きたい関ヶ原の合戦。その長い一日を描く「修羅走る・関ケ原」山本兼一著作の戦国巨編466ページを読みました。
 司馬遼太郎の「関ケ原」のマクロな視点とは対極的に「個」を鮮やかに描いてました。

 主家・豊臣家の為、義に生きるか。旗色の良い側に鞍替えするか。裏切りを決めた主に忠誠を尽くすのか、叛旗を翻すのか。天下を取る。友情に殉じる。生きて妻のもとに帰る。十数万の兵たちの欲が激突する、血の一日が幕を開けた。
 戦国時代に情熱を注ぎ続けた著者の遺作長編です。

 最後の劇的な場面は、家康に向かって、返答次第では家康を討つ覚悟の福島正則が秀頼のいる大阪城を侵攻すのかどうか、その意思があるのかどうか問い詰めるところで物語は終わっているのだが、ここが「遺作」たらんエンドでした。
 たぶん、著者はその続きがあり、その後まで想像していたのではないだろうか・・・

 合戦自体もさることながら、合戦当事者たちの生きざまというか、死生観を訴えているように思えてくる。  とにかく読みごたえのある作品でした。