御気軽月給取りのサラリーマンコント
 「毎月が2月のように28日で終ったら楽しいと思いませんか?」
 「どうして?」
 「365÷28=13と1日 つまり、13回月給がもらえるんです」
 「その分、ノルマ達成がきつくなるゾ 月次報告も13回だぞ」
 「でも、1ヵ月分多く貰えたら・・・」
 「1月1日を日曜とすると13日は毎月金曜で13月13日13時13分13秒は毎回何かが起こる」
 「花言葉は『最悪の日』 花は・・・」
 ・・・オチが考えつきません。 平成不況で正社員も大変ながら、日雇い労働者のオイラには3日も減る2月は収入が確実に減ります。 節約節約と切り詰める人生も考えものです。ドーンと大きな花火を上げましょう。


 映画館が混んでいるそうな。平日にもかかわらず満員。 みんなが書いているのでヤジ馬のオイラも皆のシリ馬に乗って「おくりびと」

 オイラはたぶん見ないだろう。見たくない。観に行かない。 モチーフが目新しいだけではないか? テーマは普遍的、メッセージは?  見なければ語れないが「身近にある死」は成行きのままに受け止めたい。

 そんな中、オイラの先輩のブログにこんな光景が。

外来治療室で3回目の抗ガン点滴、3時間。同病の患者30人あまりがリクライニングシートで、ずらり並んで抗ガン剤投与の風景は壮観。

「抗ガン剤が実際に効いているのは患者の2割。実は8割は免疫力を奪われ悪化している。つまり殺されている」というまじめな議論あり。とするなら、眼前の光景は相当にシュールだなー。



 懸命に生きると云えば、その昔の吉永小百合の青春映画が思い出されます。タイトルは忘れましたが・・・
 設定:福岡・板付の米軍病院勤務の小百合。 「私、看護婦といっても来る日も来る日死体に死に化粧をほどこしているの。戦争でバラバラになった兵隊さんを本国に送るための作業をやっているの・・・」の告白から言葉にしないが戦争反対のメッセージ告発を叫び生きる女のおよそ明るい青春映画らしからぬワンシーンが今でも忘れられない。(たぶんに美化して風化した記憶だが・・・)

 と云うことで・・・・・  ところで「シリ馬」とは知り・尻・後・私利・支離・四里のどの漢字が当てはまるのでしょうか? で、「シリ馬に乗る」って、どう言うことでしょうか?


 今日は「新撰組の日」だそうです。
  しかし、
 文久2年2月27日(グレゴリオ暦1862年3月27日) - 新選組の前身・壬生浪士組(壬生浪士隊)結成 。  とか、 翌年文久3年(1863年)2月27日、中山道を西上する。  とか、 1863(文久2)、京都守護職・松平容保公による会津藩御預りとする建白書を提出した日  など、その根拠はさまざま、いいかげんであった。言いだしっぺ不明のまま「新撰組の日」が独り歩き。

 オイラだけではなかった。なにゆえ?を詳しく調べたマニアがいました。 でも、やっぱり、わかりませんでした。 「なぞ」をロマンと呼びましょうか・・・

 ところで、「しんせんぐみ」のセンの字、「撰」と「選」が混同して使われている事例が多いが、局長の近藤勇自身、「選」「撰」の両方の字を用いていたそうな。 その上、彼の愛刀「虎徹」は本物ではなかったらしいとのウワサ話。

 虎徹に纏わる「2007.09.07 3振りの名刀 」をどうぞ。
 近藤勇の板橋碑は「2008.09.02  幕臣! それとも、テロリスト? 」をクリックして下されー





2009.02.26  記憶の伝承
 ひと雨ごとに春が近づく今日この頃。今年、東京都心では積雪はありませんでした。昨年は2・3から6日に5から10cmの積雪でした。
 で、今から73年前の今日は大雪でした。

 1936年(昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター事件が起こった。  いわゆる二・二六事件勃発の日です。

 教科書の歴史がすべてではないが学校で習った記憶はない。大人から聞かされたこともない。自ら調べないと知らない歴史とはなんでしょう。  記憶の伝承も先人の務めです。 オイラの記憶はせめてこのブログに書き続けたい。と感じた日であった。


 養殖ブリカマ298円が半額に。
        と云うことで今夜は「鰤大根」
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   鉄矢企画 第2弾 「旅バラ・ドキュメンタリー」
              テレビ番組 90分・年4回シリーズ
 武田鉄矢が「旅・歴史・歩」をキーワードに先人の街道を往く。
 
    その ①  「竜馬・脱藩の道 京を目指す」
 土佐藩・郷士の坂本竜馬が脱藩を決意し、京を目指したのは・・歳の時であった。 高知・高松から岡山や大阪へ船が一般的であったが、なぜか? 松山経由で今治から山陽道で京へ登った。(と、オイラは記憶・認識しているが・・・ これからじっくり調べよう)
 今は舗装された道も当時は獣道(チトおおげさか?) 若さゆえの大冒険であったはず。情熱だけの無鉄砲さが彼の支えであった。
  おまけエピソード  鹿児島県の新川渓谷温泉郷上流にある「塩浸温泉」の道路脇に残る露天風呂。お龍さんと日本人初の新婚旅行に来たとされている湯にのんびり浸かる鉄矢であった。 また、竜馬暗殺後のお龍さんの生涯も探り語る。

    その ②  「水戸・天狗党 京の慶喜へ直訴の西上」
 武田耕雲斎に牽きいられた約千名の移動記(詳しくは昨日のブログにて)を歩く。

    その ③  「上杉謙信 将軍・謁見の旅」
 「義」だけで語られる毘沙門天の化身・謙信。しかし、度重なる関東行軍を支える豊かな経済力は越後上布・金山発掘(佐渡金山は江戸初期の大久保長安の開発)にほかなりません。ですので、京都にもその問屋があり、京の情勢は逐一報告が上がってました。信長上洛前に2度も謙信は京へ昇り将軍に謁見しておりました。
 三好勢に嫌がらせ・迫害を受けているグチる将軍に「明日にでも本国から兵を呼び、一戦交えましょうか」と言ったとか。 対して、将軍は
・・・長期戦になったら? 謙信が敗けそうになり越後に帰る時、麻呂も上杉関東管領のように都落ちしなければならないか? 遠く雪深い田舎はイヤジャー ・・・と思い巡らせた将軍は「時期尚早である」と断ったそうな。
 もし、上杉軍・上洛で室町幕府の執権職に付いていたら歴史はどうなっていただろうか?
現に混成信長軍は・・で敗れており、上杉に送った「洛中洛図」には京を闊歩する謙信が描かれております。
  おまけエピソード  「洛中洛図」が狩野永徳の真筆・本物であることが3年前に証明されました。その経緯の裏には無名のマニアの執念・努力があった。 を語る鉄矢。

   その ④ 「島津義弘 東軍の家康本陣・中央突破で薩摩帰還」
 頼朝公以来の名門島津家は血縁争いが絶えなかった。「島津家中興の祖」といわれる忠良は伊作島津の成り上がり者で有力庶家の相州島津の貴久を養嫡子として家名を残してきた。その為、息子たちは団結して薩摩・大隅・日向三国の守護となった兄・義久は内政国主、弟・義弘は外征軍事と二人三脚で合戦に明け暮れていた。 (国をまとめるには絶対専制君主か外への覇権主義かは過去の歴史が証明)
 義弘は島津家の総大将として、伊藤・大友・龍造寺・阿蘇を破り九州統一目前で秀吉の大軍に攻め込まれる。兄・義久の降伏にしぶしぶ同意し、意地と駆引きで薩摩一国のみを安堵された。
秀吉死後の関ヶ原では義理で西軍に就いたが三成の不甲斐なさに嫌気がさし、伏見城に立てこもるである鳥居元忠に助成を申し込むが断られ、しかたなく成り行きのまま西軍陣地に丸に十字の軍旗を立てる。その数1000名。敗色濃い西軍を見届けると「イザ還らん」と号令一発。何を思ったか?家康の本陣目掛け猪突猛進・敵中突破。脇目も振らず戦場離脱。そのまま、薩摩に帰ってしまった。
 「義弘様だけはなんとしても本国へ」の部下の犠牲の上での逃避行。薩摩に還った兵は80人。 世に名高い「島津の退き口」は戦後処理へ大きな賭けであった。すなわち、家康の呼び出しに応じた多くの西軍の大名が申し開きもままならぬまま断絶取り潰しの中、頑として応じず会津の上杉同様不気味な沈黙を守っていた。
すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とした。まさに方便ともいうべき論法を幕府から引き出し、薩摩一国のみの領土安堵を勝ち取った。
 おまけエピソード  毎年10月下旬、鹿児島から日置市の義弘の墓まで「妙円寺詣り」と云う武者コスプレウォークが行われます。 さて、鉄矢はどんなイデタチで参加するのやら・・・


  てなことを夜勤の管理室にてパソコンのキーボードを右手の人指し指でボッチラボッチラと叩いております。




     

岡林信康 / 私たちの望むものは
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 水戸から高崎・大仁田・馬籠・各務原・根尾・今庄と約800kmを歩く一行。武田耕雲斎に率いられた天狗党千人弱。京を目指し、極寒の冬を西上。
 彼らの60日をモチーフに映画を創りたーい。のである。

 主演は武田鉄矢。 彼は23年前、「Ronin」と云う坂本竜馬と奇兵隊を描いた映画に出ており、尊皇攘夷の主張には反対であろうが耕雲斎らの行動には共鳴する処があるはず。年齢・体力的にも耕雲斎を演じきれるのは鉄也しか居ないのだ。

 23歳の藤田小四郎を演じる役者は誰が適役であろうか?
 キンキの堂本光一を藤田にして、強を慶喜役に抜擢してみたら? どうだろう。彼らに「日本の未来」を語らせたい。

 当然、吉田拓郎にも出てもらい、桃井かおりには同行するミエを演じてほしい。幕府・田村意尊役は宇崎竜童、軍師・山国兵部は岡林信康。 

 なにやら70年代の青春グラフィテー さながら「今時ジジィグラフィテー」を発信したい。爆発させたい。
 所詮、ブログ。夢見る自由。大風呂敷を広げたい。


    本編・オープニング
 季節は秋。場所は・・境内。500人の兵・農民・女子供も居る。
 藤田がガナっている。アジっている。怒鳴っている。
 「我々は攘夷決行のさきがけたらん。狂乱物価のみなもとは現幕閣阿部老中を筆頭とする開国派の売国狸どもの所為である。 帝の勅命を無視して、異国けとうの武力行使に脅されおびやかされ条約を結ぶとは言語道断。断固反対。 ただちに撤回し、すみやかに退陣せよ。・・・」
 テロップが流れる。
 「今から百数十年前の幕末。「開国・攘夷」と国論は二分し、「尊王倒幕」の機運が持ち上がる中、「水戸学」を実践する一団が狼煙を上げた・・・『自由』という思想はまだ無かったが彼らの叫びは・・・」
 
 岡林の歌うメロディーが流れる。
 
   私達の望むものは生きる苦しみではなく
   私達の望むものは生きる喜びなのだ

   私達の望むものは社会のための私ではなく
   私達の望むものは私達のための社会なのだ

   私達の望むものは与えられるではなく
   私達の望むものは奪い取ることなのだ

   私達の望むものはあなたを殺すことではなく
   私達の望むものはあなたと生きることなのだ

    今ある不幸にとどまってはならない
    まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ


       「 勅命 攘夷せよ 」
      水戸・天狗党 西上・始末記


 さて、実際のロケーションはどうしましょう。
 2泊3日でオープニングと戦闘シーン。 カメラ5台。スタッフも100人規模か?
エキストラ500人にはロケ日2週間前から髭剃り禁止で参加してもらう。カツラは? 衣装は? 寒さ対策は?
 1日目の8時から10時、集合。正午より4時までオープニングの集会シーン5分。夜6時から10時は大宴会。鉄也・タクロー・信康などのコンサート。
 2日目は火薬を使った戦闘シーン。で、エキストラ解散。
 3日目は役者の演技とUPシーン。迫力あるショットは撮れるかいな。
 で、旅館1軒丸借りで違う意味でのてんてこ舞い。経費実費だけで1000万か?

 てなてな、ことを考えながら構想は具体的に固まってゆくのであった。



    

 久し振りの日曜の休日。 優雅に一杯の珈琲を飲みたいのである。 京都のイノダコーヒーは2・3回しか飲んだことがないが、あの濃いコーヒーが忘れられない。
 で、魚眼レンズを持って休日散歩です。

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 2種の異なる木が仲良く同根してました。
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 気になる木に注目していたら、
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 オイラはメジロとウグイスの区別がつきません。

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 「き」になる蒸きき関車 の置いてある公園へ
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 もうひとつ、木に囲まれた骨組の飛行キ
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 春・夏・秋・冬 が揃った木岐に出会った休日でした。
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      えぇ? 春の梅、夏の熱帯シュロ、秋の枯葉、冬の幹樹。


 


 6:15、路上生計者の朝は早いのだ。 にしても日の出がはやくなりました。携帯カメラのオートでも撮影できました。
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 いつもの定位置で7時に見上げれば
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 実は1月10日に同じホームで絞りを開けてみたらピンボケでした。
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 ここに流れていた川を眺めて、高野辰之氏は文部省唱歌「春の小川」を作詞したそうです。1912年・大正元年でした。しかし、昭和39年のオリンピックで川は消えました。
 代々木八幡駅近くの線路脇にその歌碑は建っておりました。
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 いえ、今も新宿・都庁近辺地下の淀橋浄水場からなのか? それとも、明治神宮内の御料お池を水源として地下を流れています。
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 現在は細い道として残っております。
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 この道路が井の頭通りの起点であり、地下に水路2本が交わっております。右方向水路は新宿御苑を水源として、流れてきます。
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 両隣の建物は西武百貨店であり、地下水路のため地下連絡路が結べず地上階に連絡路が造られました。
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 水路はハチ公の銅像・渋谷駅・東急百貨店の地下を流れております。

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 ここからコンクリで施された護岸川となり、地上を流れます。
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 明治通りに沿って、並木橋・渋谷橋・天現寺橋・古橋・一の橋(麻布十番)と川は流れます。 


   昭和37年、発表  

  「川は流れる」を聞きながら古い渋谷川をクリックでどうぞ。