『雪の華』 


  ♪♪ 雪やこんこん アラレやこんこん  (正しくは「こんこ」だそうです)
 弥生3月の春が目の前に来ているにも関わらず、口ずさみました。

 雪にうんざりしている北国のアナタには呆れられそうですが東京に住むオイラにはもう1度降ってほしいなー なんて思います。

 さて、江戸期末、三河国刈谷藩主土井利徳の四男として生まれた土井利位(どい としつら)をご存知ですか?  誰も知らねーだろうなー オイラも知らなかった。 (オイラが知らないのにオマエが知る訳がない。とバカにしているのではありません)

 四男坊ですので養子縁組がなされぬ限り、部屋住みの石潰しです。ですが教養も見識もある利位は古河藩に婿養子に入りました。養父が健在なため、オランダ渡りの「蘭鏡」(顕微鏡)で雪降る寒い地が珍しいのか? 雪の結晶の観察に熱中しました。

 苦節20年の観察記を、雪の華と名づけ『雪華図説』を出版しました。
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 その結晶図はまたたく間に庶民に浸透しました。
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 しかし、これだけなら新し物好きな道楽殿様の粋狂仁で片付けられるのですが、
   実はもっとスゴイ人だったのです。

 1822年33歳で家督を継ぐと鷹見泉石(オイラブログ2008.12.03)を家老に登用し藩政改革を行ない、1841年老中首座水野忠邦による天保の改革が始まると利位は忠邦に協力して改革に参与した。しかし、意見対立から水野を失脚させ老中首座に任命された。
 幕政担当期間はわずか10ヶ月という短期間であるが、一時的に幕府財政を黒字に好転させるなど、手腕を発揮した。
 しかし、水野復活にともない、利位は忠邦の報復を恐れて自ら老中を辞任した。

 嘉永元年(1848年)4月25日、養子の土井利亨に家督を譲って隠居する。直後の7月2日に死去。享年60。
   ペリー来航は1853年7月8日のことであった。
   明治政府誕生の1868年の20年前であった。


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 賛を読むにさしずめ「仏の貴い教えや慈悲は、どこにあるのでもない。布袋の担ぐ袋のように、自分自身の内にこそあるのだ」 と書いてあります。




  

 古河のポストマンさん 3/19からの古河歴史博物館展覧会に行きたいがご都合はいかが? (こちらもチト物入りだが)




 中東アラブ各地で革命の嵐が激しく吹いてます。
 75年前の帝都も雪の中、戒厳令が布かれました。

  てなことに関係なく、春陽気に誘われ、「延喜式」(927年)にその名を連ねる流れを持つ調布の布多天神社にブラリ散歩です。

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 「国家安泰・五穀豊穣」月例祭の里神楽奉納です。
 「神剣幽助」(しんけんゆうじょ)が舞殿にて演じられました。 

 平安時代、帝より御剣献上の勅命を受けた刀鍛冶・三条宗近は、刀を打つ前に禊をして祝詞を唱えます。すると、稲荷大神が現われ、向こう槌を打ち、その加護により見事な刀が出来上がりました。
227w037.jpg 227w044.jpg 宗近は出来上がった刀を「小狐丸」と名付けて献上します。

  それがコレです。
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 刀工「天国」(あまくに)作と伝えられる鋒両刃造の国宝『小烏丸』

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 小1時間後の出し物は「天孫降臨」でした。
227w055.jpg 227w054.jpg 天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)一行を待ち受ける(天狗面の)国津神の猿田毘古命の先導で天降りをすることになった。

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    森田一義氏に捧ぐオマージュ妄想企画 
    こんなテレビ番組があったらイイナー
     『カミダノミ☆タモリ倶楽部』
    第43回「祝 可部線 延長復活!」
        ゲスト:河合その子

   可部線にてロケのPV 

 毎度おなじみの流転の番組、タモリです。
 45歳になられてもお美しい会員番号12番のおニャン子の復活に合わせ可部線延長復活が2月3日に発表されました。

N:そもそも、可部線とは。
 山陽本線広島駅となりの横川駅・可部駅を経て、日本五大名峡のひとつである三段峡から日本海の山陰本線浜田駅を結ぼうとした鉄道計画路線です。
 横川・可部間は14kmはmもともと電化されていたが、その先の三段峡は非電化もあり、2003年12月に可部駅 - 三段峡駅間の21駅46.2km が廃止されたのであった。

 現在では廃線(坪野駅 - 田之尻駅間)となった旧国鉄2万km標
JNR_20000km_1.jpg JNR_20000km_2.jpg         ありし日の2万km標に接近するキハ40形(坪野駅西方)

 河合が86年にロケを行なった今井田駅も失くなっていた。
 当時を思い出しながら歌う河合に隠れて。
 ・・・旦那の後藤次利はアイドルキラーとも呼ばれてた。 最初の夫人はシモンズの玉井タエ、次の夫人は木之内みどり。1994年に河合その子と3度目の結婚をしている。の公然なる暴露話が飛びだす。


 広島市は2011年2月3日、可部線で2003年に廃止された区間のうち可部駅から廃止区間にある河戸駅付近に設置される予定の新駅までの約2kmを電化して復活させることを明らかにした。廃止されたJRの路線が復活するのは全国でも初めてのケースになる。広島市と国が建設費の大半を負担して、2013年度中の完成を目指して2011年度中に着工し、可部駅と新駅の中間にも別の新駅を設置する計画を発表した。


 

 ちと、バタバタしており、書き込みはお休みします。

 
               

 「携帯電話やパソコンから映像を送れる時代」が当たり前になったが20年前には想像できなかった。まして、映像を01のデジタルに変換して持ち運べる時代なのだ。イヤ、何兆何京という無数の映像が空中に漂う時代に住んでいるのだ。

 その昔、チョット昔。20年前、ビデオカメラが家庭に入り記録することが安易になった。だが、その伝達電送はリアルタイムでなかった。
 コンサートの興奮をそのまま持ち帰れたら? 研修会・講演会の内容をそのまま持ち帰れたら? との発想から生まれた「ほっかほかビデオ」
 4tトラックに200台のVHSデッキを載せ、どこへでも移動して一斉録画スタート。数時間後の事後にお持ち帰り。
 「これって、スゴクない?」
 
 世の中、バブル期まっただ中。
 仲間3名の会社ゴッコも順調だった。むしろ、文字通り濡れてに泡の利益を上げていた。そんな中、プロレスが大好きな社長は何をトチ狂ったかレスラー剛竜馬とプロモーター加藤に煽てられ「オリエンタルプロレス」なる団体旗揚げに荷担したのであった。

 そして、大田区立体育館はじめとする各会場で「ほっかほかビデオ」の収録と販売をオイラは担当したのであった。
 販売価格5000円で60~100近い本数が売れたが赤字であった。なにせレンタル料が高かったのだが話題作りでもあった。

 現に「オリエンタルプロレス」Wikipediaには・・・

 まぁ、当時はいい時代だった。
 (G3になると他人の尻馬に乗っただけの自慢話や苦しかった思い出さえも傷口が癒されると語りたくなるものでオイラもその領域に足を突っ込んだのであろうか・・・)


 で、改めて剛竜馬についてWikipediaを読んでみた。

 1956年3月23日、東京都新宿区三光町出身、神戸育ちのプロレスラー。 
 母子家庭で苦労する妹たちに楽をさせたいと、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通い、1970年の国際プロレス第1回新人選手公募に約2,000人の中から14歳の若さで選出される。
 新日や全日を渡り歩き、弱小団体にも所属し、自ら「オリプロ」を設立したがスポンサーとの金銭トラブルで消滅。
 2001年12月9日には鶴見の計らいで引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛が会場入りをドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴されるという、前代未聞の引退セレモニーとなった。
 
 2003年1月15日午後6時25分頃、JR新宿駅西口の自動券売機前にて69歳の主婦の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、逮捕後も頑に犯行を否定したことで188日間の拘置所生活を送ったが、結局不起訴処分になった。

 2009年10月13日、連絡がないことを心配した長男が自宅を訪ね、翌日再訪した長女が倒れている剛を発見し病院に搬送したが、4日後の10月18日午前1時11分に敗血症のため死去した。 53歳没。 戒名は『観照宏徳信士』


 社長に問いただしてみたら、ナント数億を注ぎ込んでいたらしい。資本金百万の会社が傾くのも当たり前である。 そして、空中分解。

 おネエちゃんを侍らせ、1杯1万円のコーラを飲んでいたオイラたちのバブルは弾けて飛んでいってしまった。
 繰り返すが、「当時はいい時代だった」 と書いておこう。












2011.02.23  富士山の日
 2月23日の今日は富士山の日です。 他のブログにも富士写真や富士話が賑やかに並んでいることでしょう。

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 富士一周を12に分けて、月々の1日を15km前後の歩きで一廻りしようと企画されたドリームウォークが日本富士山協会で催されています。


 さて、グルッと富士を一周すればやはり登りたくなりますよね。

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 でも、富士山をあなどってはいけません。
 滑落・転落死が起こることもしばしばなのである。


 1966年4月、三浦雄一郎(当時34)はその峰に立っていた。
 ひとりスキーを履いて、下界を見ていた。
 誰も考えなかった世界初にチャレンジするのだった。
 5人のカメラマンは3分・12分のチャンスしかないのである。
 『富士山直滑降』 一発勝負の瞬間であった。
 重力に身を任せ、滑空する三浦は運を天に預けたのであった。
 技量ではない。度胸だけでも無い。すべてはこの瞬間だけに。
 転倒することなく、チャレンジは大成功であった。

 しかし、悲劇が起こっていた。
 パーン(カメラを横に振る動作)するカメラマンが勢い余って三脚ごと200mを転落してしまったのである。 そして、打撲骨折。ほぼ即死に近かったのである。
 その死は責任問題も追及されず、密やかに事実だけが残った。

 その年の秋、東宝系映画館で全国公開され、喝采をあびた。
 
 それから数年後オイラはその映像会社に入社していた。
 社会人の第一歩がそこから始まったのである。






 1993年(だったと思うが)オイラは人生の岐路に立っていた。イヤ、仲間3名で始めた会社ゴッコが崩壊して走り続けていた映像人生に残影が見え隠れしていた。
 何もかも捨てたかった放り出したかった(数年前に離婚しており滅茶苦茶であった)リセットしたかった。ゲームオーバー
 地獄ではないむしろ天国のような華やいだ時間を満喫して浮かれていただけなのである。破裂するバブル・しぼんだ風船は必然だったのかも知れない。
 それはおのずからの崩壊なのか?みずからの自爆だったのか?


 20年前にその本を読んでいた。
 徳川旗本が流れ流れて五稜郭へ。「降伏せぬ」と脱走し、蝦夷を転々とし、最後は官軍討伐隊に捕まり残首。後生大事に持っていたオランダ製ビール瓶と共に胴体のみが埋葬された。ぶつければ割れるガラス瓶に来る文明開化に憧れながらも旧主への忠義を貫いた男の物語と記憶していた。
 佐々木譲氏の「五稜郭残党伝」を改めて読み返してみました。 (単にBookOffで105円だっただけだが)

 和人の横暴さと虐げられるアイヌ・長崎から逃れてきた隠れキリシタン家族・破戒僧率いる病人集団。などなどの接触から脱走男は懐に檄文を忍ばせていた。

 「朝廷の蝦夷地支配に異議あり候。そもそも王政は唯強藩の策士ら、己が身を利するが為に設けしもの也。何ら天下統治の大義なし。ましてや蝦夷地に於いてをや。王政復古ありしより、未だ蝦夷地に所謂維新の美政を見ず、非道この地に蔓延、土民益々窮迫せり。我ら蝦夷地の奸邪を一掃、この地に民の憂い苫悩たき公正至当の世を建てんと欲し、敢えて逆賊叛徒の汚名を甘受するもの也」

  
 佐々木氏の本はゼロ戦がベルリンの空を舞った、との史実を膨らませた「ベルリン飛行指令」他の戦記3部作から最近の北海道警察を舞台とした3部作など、多くを読んでいるが実におもしろい。未読を探してみたい作家です。

 さて、「五稜郭残党伝」の続き最後なのだが、
 ヤエコエリカはその島影に向かって、小さく、しかしはっきりと口にしてみた。
 「あの島で、あたしは立派な男の干を育てる。約束する、シルンケ。それに源次郎にも、勇作にも」
 東蝦夷地のその東端、霧多布場所の海岸であった。
 明治二年の旧暦十月、苛烈な冬がもうすぐ背後にまで追っていた。
                    で、締め括られていた。

 唐突にヤエコエリカやシルンケなるアイヌらしい人物名が書かれているか? が気になる人は読んでみなはれ。とお勧めします。




 毎日書き込みをくれる焼酎学生と待ち合わせです。
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 池上・本門寺をオイラは裏口から進入でした。

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 1608年創建の五重塔は和唐様式だそうです。
 でも、オイラの目的は大堂(祖師堂)の天井画です。
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 外陣の天井画を大田区在住の川端龍子画伯に委嘱。画伯はその龍図の完成をみることなく逝去されたが、奥村土牛画伯が眼を点じて開眼供養をとげた。未完ゆえ龍と判別しがたいが画伯の遺作です。

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 2010.02.24の念願がひとつ果せました。ついでに、
  百田光浩氏の墓、見学 221w006.jpg
 信心深くないふたりは釈尊の真舎利2粒が奉安されている本殿での御参りもせず移動しました。 
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 移動途中の東京駅にて、「珍」なる絶景に立ち寄りです。

pikaso.jpg 京橋・ブリヂストン美術館へ

 クロード・モネはモネらし(作品案内より無断転写)、パブロ・ピカソはピカソらしく(会場にて無断盗撮)
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 シロウトながら、シロウトゆえに? どの作品も保護のためなのか?無反射ガラスの表面が気になりました。




  毎日が嵐のように燃えていた 

 あるブログに「吉牛さようなら/二度と口にしないだろう」なるツブヤキが書いてあった。
  「うん、わかるなー そうだよね」
 モノは違えどオイラもチッチャな決意決別がある。
  2007.11.19  赤心慶福
  2007.11.29  切なる願い
  2009.07.26  ガッカリdaze 第2弾
  2009.07.27  嫌いな理由

 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷峠から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」
 
 「食の証明」は身をもって体験体感しなければ・・・・・


 先週は記念日に「懸けて」内容をUPしました。
 今週は「追憶の日」と共に昔を語ってゆきます。

 オイラの祖母は当然ながら明治生まれです。
 田舎者ゆえ、洋食なるハイカラなものには無縁でした。
 母が帰郷? それともオヤジとの喧嘩の果てのストライキ?
 見様見真似で作ってくれたカレーライス。
 トロミを付けるための小麦粉タップリのお好み焼きソックリ。
 (昭和30年代当時、オイラはお好み焼きは知りませんでしたが)
 二度と祖母のカレーの記憶はありません。

 やっぱり、冬の御ひとり様食卓は鍋が多いです。
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 鱈とネギのアッサリ鍋。 鮭とモヤシ野菜のチャンチャ蒸鍋。
 (食い気が先に立ち、いつもピンボケでおいしさが伝えられません)

 そんな、祖母の思い出の味はなんと云っても、「酒粕の大根ミゾレ鮭汁」です。 酒粕にはアルコールが入ってます。煮てもほんのり酒が残っております。心地好い高揚感に包まれバタンキューの夢心地。

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 赤貝と筍煮の缶詰を生野菜に乗せての丼。 春菊スキヤキ鍋。


 でも、オイラは成人になっても下戸で酒が苦手です。
 もし、オイラが酒が好きだったら人生は確実に変わっていただろう。
 と、いつも思います。
          ・・・無いものねだりの願望人生はつづくのだ。