2014.08.31  八月ラスト
 いつものように出かけた夜7時の永福町駅前に人だかりができてました。
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 富士山方向に三日月が浮かび上がってました。 (携帯カメラにて)

 夏休みの八月も今日で終わりですね。
 去りゆく夏を惜しむかのような小さなイベントが開かれてました。





 【第61回マカオグランプリ2014】
決勝戦が行われるは2014年11月16日(日)
リスボアスタンド(指定席)で公道レースを観戦!
   チケットの予約手配はこちらからです。
   http://specialsmo.jugem.jp/?eid=695
 明治元年(1868年)10月20日に勃発した鯨波戦争で戦死した官軍側の忠魂碑が柏崎神社横の一隅にあります。 各藩士58名の招魂所として建設された墓地で日露戦争の慰霊碑もありました。 (数年前の帰郷のおりに見学参拝)
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 右写真は柏崎小学校内に建てられ残る「明治天皇柏崎行在所」碑です。

 明治11年(1878年)8月30日に東京を出発した明治天皇の巡行は、長野県から新潟県へ入られたのが9月10日で26日まで県内に滞在されました。 ちなみに11月9日御還幸という72日間にわたる長期の旅であった。
 供奉員は岩倉具視・大隈重信・ 大山巌・井上馨・川路利良ら総勢798人・乗馬116頭の大行列であった。 そうな。

 時代的に前年の1877年5月26日木戸孝允(桂小五郎)が病死(満43歳没)
 同年9月24日西郷隆盛が鹿児島・城山にて自決(満49歳没)
 明治11年(1878年)5月14日大久保利通は暗殺死(満47歳没)
 いわゆる「維新の三傑」が40代でそれぞれ亡くなっているのです。

 明治5年から明治18年までの間に6回にわたって行われた明治天皇巡行は、民情を視察し、新政府の適否をさぐり、あわせて天皇統治権の浸透を図るためといわれています。 時代の一代大パフォーマンスだったのである。
 たとえば、富山・石川の天田峠越えのため新道が突貫工事で開かれた。 しかし、馬車での通過は不可能であったので板輿に乗り替え、越えられました。
   itakosi.jpg 担ぎ方が変ではないか?
  前後の担ぎ手が天皇を向いて担ぎ歩いたのでした。 (オイオイ!?)
 こんな手書きの記録と共に写真師・内田九一(明治天皇の肖像写真を撮影した)を同行させてもいた。
 また、金沢では旧藩主前田斎泰を人前に立たせ、一行を出迎えさせたりもしました。

 オットット。また脇道に逸れました。
 椎谷から柏崎におみえになられた天皇御一行様は・・・・・


 夏の炎天下で働く人々が多くいる中、オイラはクーラーの効いた室内でノホホンとどうでもいい些細な歴史をネットで旅しております。
 夏休みのG3宿題「雑・柏崎考察/幕末明治・人物偏」レポートといいながら、ゴクゴク私的好奇心の羅列の数日でしたが、読んでいただき感謝です。
 
 シツコクも・・・ オイラが小学生だったころキャンプに行った御野立公園にもデッカイ碑があったと記憶するが今はどうなっているでしょうか?
 




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2014.08.29  高須4兄弟
 美濃高須藩の第10代藩主松平義建(まつだいらよしたつ/1800年-1862)には、10人の息子が居た。
 当時の伝統隆盛・ならわししきたりとして長男以外は家督相続のスペアーであり家住みの石潰しであった。 ですので、側近・家老達は次男以下を養子縁組にて家名繁栄に奔走しました。

 その結果、後世に「高須四兄弟」なる呼び名で歴史に残るのであった。
   Takasu_quartet.jpg  明治11年9月撮影
      左から定敬、容保、茂栄、慶勝

     次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子
     三男:武成 浜田藩越智松平家養子
     七男:容保 会津藩会津松平家養子
     八男:定敬 桑名藩久松松平家養子

 オイラの注目は桑名藩主になった松平定敬(まつだいらさだあき)です。

 元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保(会津藩主)ともに朝廷警護の任についていた。同年の禁門の変では薩摩藩会津藩とともに長州藩兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。
 しかし、慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、新政府からは敵視され、朝敵5等級の認定のうち、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬とみなされ、国元からも見放された。
 定敬は桑名藩の飛び地領である越後国柏崎を目指し、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」(新沢佳大によると「コリア号」)で柏崎へ渡る。

 オラが田舎に雲上人・殿さまがやってきたのである。
 (明治11年には北陸巡幸の明治天皇陛下様もやってきた)
   ・・・チト時代がかりの表現かな?
 
 当時23歳であった藩主定敬は劒野山御殿楼に入ることを憚って大久保の勝願寺で謹慎していた。
 しかし、閏4月初旬には抗戦の決意を固め、服部半蔵(12代)を総督として、黒田・山縣の薩長新政府軍と戦闘が開かれたのである。  世に云う「鯨波戦争」である。
  ・・・ダーレも知らないだろうナー  オイラも初めて知った。

 しかし、三国峠が攻略された場合に孤立する柏崎が藩主の所在地として不適と判断されて桑名藩預領の加茂へ移動することとなり、定敬は16日に政事総裁・沢采女など80人と共に柏崎を出発した。
 その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。 箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り降伏、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。同年2月に許嫁の初子と結婚した。

 明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征。
 明治27年(1894年) 兄松平容保のあとを継承し、日光東照宮宮司就任。
 明治41年(1908年)7月12日に61歳で死去。

  ・・・ノホノンと天寿を全うしたわけではなかろうが、主君として臣を持つ身も大変なことだったであろう。 と、2014年の時代に生きる市井の民のオイラは思った。


   OMAKE 
 松平義建には10人の息子がいました。  Wikibediaによると。
 「六男:某 戊辰戦争で切腹」なる1行があり、名も切腹理由も書いてありませんでした。戊辰戦争最中に陣中において、家名を汚すような大失態を犯したのであろうか? その上、家系からも抹殺され、六男:容保、七男:定敬と書かれる史書まであります。
 これから「六男:某」を探しに出掛けます。





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2014.08.28  瞬・雷光
 いつもの撮影ポイントでいつものような構図ショットです。
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 7時過ぎの西空?に雷鳴は聞こえぬが瞬光が光り出しました。
 約 0.45コマ/秒の速度の連写モードでシャッターを押し続けました。
  (オートモードながら、S1/4 F5.2 ISO800)

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 当然、何コマ間は抜いてアップしましたがコンデジって手軽で便利ですね。
  (写真にマウスを置き左クリックでパソコン等倍、さらにクリックで拡大できますがピンポケボケボケが目立ちます)
 落雷の稲妻は見られませんでしたが、天空の息吹を堪能しました。




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 薩長中心の新政府を認めぬ「徳川将軍家遺臣武士団」は榎本武揚を中心に「蝦夷共和国」建設を目標に会津戦争で敗走した彰義隊・伝習隊・新選組など約3500人が上陸・占拠ふたたび戦闘が起こった。 いわゆる箱館戦争です。
 
 森 常吉(文政9年6月12日(1826年7月16日) - 明治2年11月13日(1869年12月15日))は、幕末の桑名藩士です。
 藩主・松平定敬が京都所司代であった時には公用人筆頭として朝廷や諸藩との外交責任者であった 。
 戊辰戦争時、上野戦争に参戦した後、同藩士関川代次郎らと共に徹底抗戦派の藩主・定敬を護衛して蝦夷地へ渡航。新選組に入隊し、箱館戦争に参戦、1868年早々、新選組頭取改役(隊長)に任命される。隊員約150名の中には竹内兄弟も居た。
 箱館戦争終結後に投獄されたが、1869年11月13日、刑部省から桑名藩に引き渡され、藩主・定敬を守るため全責任を負って旧藩邸で切腹。享年44歳。
 墓所は東京都江東区の霊巌寺、三重県桑名市の十念寺にある。

  辞世の歌は、
  『なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふべき』
  『うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立』
                           ※君=藩主・松平定敬のこと。


 家臣が主の責任を一手に引き受け、切腹することこそ“武士の鑑・本懐”です。
 他例として、会津藩においても家老3人が切腹を命じられました。
 その一方、近藤勇は板橋において斬首、人斬り以蔵は打ち首晒しモノに。
 武士のアイディンティーとは“死に方”なのでは?なんて、想像もつかない生き様がほんの数十年前までの日本にありました。





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 越後国柏崎は江戸時代は伊勢国桑名藩の飛領地でした。
 幕末、桑名藩士の竹内惣太夫は柏崎にて、妻ちよと暮らしていた。
 夫婦には長男・武雄と次男・徳雄(他調べきれず)がいた。

 鬨あたかも明治政府誕生期(1868年1月25日)ですが、抗戦主派藩主松平定敬の柏崎来訪到着により、兄弟も藩主と共に転戦し明治元年9月17日仙台にて部隊編成上新撰組に組み込まれた。

 兄弟とも藩主に従い榎本艦隊にて蝦夷を目指したのである。
 (榎本武揚は、旧幕臣を移住させ、北方の防備・開拓と画策していた)
 兄・武雄は箱館戦争期の明治元年10月24日、七重村の戦いで重傷を負い入院するもそのまま帰らぬ人となる。 享年22歳。
 弟・徳雄は、明治2年5月18日に箱館・弁天台場にて降伏。
 その後は東京市芝区田町に居を構え、巡査となった。

 兄・武雄の墓が柏崎市西本町の浄願寺にあります。
 また、桑名藩主・松平定敬の本陣として使用された大久保・勝願寺には各地に戦死病死した桑名藩士33名の合墳墓があり、竹内猶斎の名が刻まれております。
 弟・徳雄は東京府の巡査になったあとの足取りは追い切れなかったが、浄願寺の墓に名が残っている。
 推察するに、巡査を辞め柏崎に帰り、家督(といっても藩籍はなく父達が居住していたのでは?)を継ぎ菩提寺と墓守に故郷に戻っていたのではなかろうか・・・


 ・・・そういえば、高校時代の同級生に「竹内」がいたが彼は惣太夫・徳雄と続く家系の子孫であろうか? たぶん浄願寺の住職に聞いてもわからないであろうが帰省のおりの柏崎めぐりネタがまたひとつ増えました。


 ほかにも桑名藩士で新撰組入隊士がかなりいたようです。
 函館戦争において、旧幕府軍参加諸隊の約150名の新撰組隊長は森常吉であり、彼も桑名藩士であった。
 森常吉WHO? は明日書き綴ります。





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 いつも祝日日曜日のような毎日を送るオイラですが、“G3の夏休み自由研究”と題して今週は「雑・柏崎考察/幕末明治・人物偏」を試みました。

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                          ダイヤモント“米山”です。
      初ッパナから他人様の写真の無断転用の貼り付けです。

 新潟県柏崎市は江戸時代なぜか?伊勢国桑名藩の飛領地でした。
 桑名藩領は表高は11万石であるが、実高は桑名本領地は8万3,000石(桑名・員弁・朝明・三重)、越後柏崎が5万9,000石の14万石であった。

 そもそも、柏崎は高田藩主松平越中守の領地であったが、奥州白河に転封となった。その後、白河から桑名に国替えとなるが、柏崎はそのまま統治が続いた。 (三方お得替えの変)
 越中守は鵜川の左岸の小高い岡に陣屋を構え、本国からわずか50人ほどの人数で、越後の領地を治めていたのであった。 

 天保年間(1830年から1844年)、藩士の渡辺勝之助は柏崎陣屋に赴任となり、桑名の養父と10年間にわたる日記の交換を行った。 その書かれた「柏崎日記」が現存してます。
 勝之助は終生桑名への帰郷を望んだが、63歳で柏崎に没し、若葉町・極楽寺の小高い岡の上から故郷の方向を見ている。
 「桑名藩士の柏崎日記と消えゆく墓」なるHPに日記と足跡探訪記が綴られております。


  OMAKE  オイラブログ 2012.11.15  郷土の英雄

  FUROKU  勝海舟のジィさん(祖父)は柏崎出身でした。


 ほんと歴史マニアはどこにも居ます。 市井のヲタクであろうとネットにアップしてくれているオカゲでオイラは時空を旅しております。
 感謝・カンシャで「雑・柏崎考察」は明日も懲りずにがんばります。





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  火災? P8242286.jpg ガス爆発か?



 いつもの屋上庭園です。 アチコチでゴロゴロ、リラックスタイムです。
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 6時半、富士山方向に大きな火の玉が上がりました。
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 コンデジオートで手ぶれ&ピンボケです。 刻一刻と暗くなりました。
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                     今日は調布の花火大会がありました。
   




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ワーナー・ブラザース製作配給のチャンバラ映画『るろうに剣心』を観てきた。

 まずは和月伸宏による日本の漫画『るろうに剣心』 の実写版です。
   
 幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客緋村剣心。明治維新後は「不殺」(ころさず)を誓い、流浪人として全国を旅していた。神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵達との戦いを通じて、贖罪の答えと新たな時代での生き方を模索していく。

 コミックスに触れた若者に混じりG3ひとり134分。実におもしろかった。
 原作全22巻の漫画本が読みたくなりました。 BookOffで探すか・・・


 その昔、ある小説家のコラムに「登場人物の名付けに困っている」なる一文が載っていた。 意味ある特定の名を付ければその名が独り歩きするであろうし、A・B・Cと付ければ匿名に意味が生まれる。 たとえば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」のような明確なメッセージが名に込められることもある。 そうだ。

 和月氏のシリーズ本編においても、100人以上の登場人物がいるのだが、長岡育ちの彼は明神弥彦・佐渡島方治・悠久山安慈・巻町操・三条燕・塚山・飯塚・村上・中条・・・鯨波兵庫・戌亥番神・柏崎念至・・・と新潟県の地名が多く使われてます。
 とくに今回は田中泯さん演じる柏崎念至のアクションはキレがあった。

 と今回も映画の感想とはかけ離れたネタの書き込みになりましたが、10の言葉より、まずは観ることをお勧めします。 そして、語り合おうではありませんか・・・





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 2014・08・23 18:28 西方浄空 (富士山判るかな?)
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 いつものように午後7時になりましたので庭園の鍵を閉めようとしたら・・・
 南方向二ヶ所から花火が上がりました。
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 多摩川と川崎の2ヶ所で行われた花火大会を遠くからですが堪能しました。




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