停泊する平坦な港がなく、岸壁付近の波が激しく着岸できないため、人も貨物もクレーンに吊り下げられた籠に乗って上陸することでも知られてます。
この村には高校がなく中学を卒業すると、沖縄本島の学校に行くため、親元を離れ自立を余儀なくさせられます。
そのためか?20年ほど前から「親子相撲」の真剣試合が行われる行事が秋に開かれます。
親は旅立つ息子へ父の大きさ存在と世間の荒波を「強さ」で誇示。息子は文字通りの「オヤジ越え」のぶつかり合いです。
・・・実にスガスガしい行事ですね。 地方田舎らしい伝統は素晴らしい。
オイラが訪問する伊良湖岬で床屋さんを営む加夢さんの娘さんが中学を卒業しました。
田原市にも高校があろうが娘の希望で片道2時間半の高校入学が決まりました。通うに大変と4月からは嫁実家に住むそうです。
送りだす親の心境には複雑なものがあるのでしょうね。 多分、花嫁の父以上ではないだろうか・・・
先日はその娘とオヤジだけではとても入れませんなるコジャレタレストランに行ったそうです。 娘は「こんなところに親父と入るの?((;^ω^)」って言ってました。 娘とはいるのは照れるけどやっぱり嬉しいもんですねえ (^◇^) にほほ笑ましさが伝わってきました。
また、京都市在住の53歳のオッサンかのぼんさんの処は専門学校を卒業して、プロのベーシストを目指すそうです。
まぁ、オイラには息子のみで彼等には父親として何もしてあげられなかったが娘さんをお持ちの親って大変なのでしょうね。
そんなオヤジたちの心境を歌った岡林信康「さくら雨の朝に」を貼り付けたかったのですが映像が見つかりませんでした。


「チェリーブラッサム」
そこで、先日の根府川オカメサクラ散歩で書き忘れていたことを書きます。
まず、オイラが“オカメサクラ”なる名の櫻を知ったのは09年だった。
イギリスの桜研究家イングラムさんがカンヒザクラとマメザクラを交配して作出。 和名を「オカメサクラ」とつけたそうな。 その桜は深大寺ちかくのミッション系の女子高(写真:左)に植られておりました。


2013.03.24大船フラワーセンター(焼酎学生さんと御一緒しましたね)や2014.03.12日本橋本町(umiさん知ってましたか)の裏路地あじさい通り(写真:右)に行っており、3月の早咲きとしてオイラの春来たり桜なのである。
根府川といえば、黒く平べったい“根府川石”の産地なのである。
現在では採掘禁止?なのであろうか、誰も振り向きはしない。
意外と知られてないが身近な石碑として多く使用されてきました。
三崎・白秋の歌碑

石と云えば国宝級(級が付く処が怪しいが)の珍しい謂われを持つ“夢の浮橋”なる石が名古屋・徳川記念館に鎮座していることを御存じでしょうか。

中国江蘇省江寧山の霊石で、後醍醐天皇が笠置・吉野に遷幸(せんこう)した折にも常に懐中していたと伝えられている国宝級の銘石です。
「い」「し」「て」「あ」「る」
5枚のカードを用意した。 し≒じ て≒で として並び返してみた。 まず、「る」に注目し、右端に。その左に「い」・「し」・「て」・「あ」をそれぞれ並べてみた。
「いる」・「しる」・「てる」・「ある」 となった。
「いる」 入る・居る・要る・射る・炒る・煎る・鋳る
「しる」 知る・汁
「てる」 照る
「ある」 有る・在る・或る などが並んだ。
「ある」の前に「い」・「し」「て」の3枚を並べてみました。
「いしてある」 石で在る 医師で有る 遺子で有る
意思・意志・遺志で或る
「していある」 指定有る 私邸在る 四艇或る
師弟・子弟・姉弟有る
「しいてある」 敷いて有る 強いて或る 若いて在る
「ていしある」 停止在る 諦視或る 提示有る
「いる」の前に「し」・「て」・「あ」の3枚を並べてみました。
「あてしいる」 当て字要る
「あしている」 足手要る 足で居る
「てあしいる」 手足入る
「しる」の前に「い」・「て」・「あ」の3枚を並べてみました。
「てあいしる」 出合い・出会い・出逢い知る
「あいてしる」 相手知る
「てる」の前に「い」・「し」・「あ」の3枚を並べてみました。
「しあいてる」 試合出る
「いあしてる」 いやしならば・・・
「あいしてる」 ナニ? 愛してる
「石である」から「出会い知る・相手知る」で「愛してる」が「意思・意志である」とつながっていた。
散華・落石とどこまでもヨタ話の脱線が続きますが“鉄道話”で気づいたのだが根府川駅には“1番線”が存在しないのである。 2・3・4番ホームが運用されてました。
全国で珍しい0番線ホームのある柏崎駅や松本駅に比べ1番線ホームの無い駅って珍しのではなかろうか・・・
そう云えば、東京駅?上野駅にも欠番ホ-ムがあったと記憶するがー
テナテナ『オイラの謎旅』はつづくのだ。 オ・シ・マ・イ
中には1本の木から紅白が。さらに五弁の花びらにも紅白が。


1本の椿には紅白マダラ模様と赤い花を咲かす木もあります。


そして、こちらは源平枝シダレ桃だそうです。


八重咲き・枝垂れ・紅白咲き分けの3つの特性を 合わせもつ花桃です。
まったく盛って、欲張りな花たちです。
しかし、”サクラ”は単純明確に種類が多いだけです。
早いか遅いか? 五弁か八重か? すべて桜色です。
1本の木に一重と八重の花を咲かす桜が京都・地主神社や渋谷・金王八幡宮にあります。 中にはミドリイロのウコンや御衣黄などの櫻もありますが。






東京杉並の善福川緑地のソメイヨシノは八分咲きかな?
オォ! 陽光桜をインコ?が花弁をつばんでました。




関東・東京地方の今日の日曜日は午後から雨らしいです。


モクレンの花を見ただけで 「方角」 が分かることをご存知でしたか?
なぜかと言えば、 花弁が左から右方向へ曲がるように咲いているからです。
ツボミの状態であればもっとハッキリ分かるのですが、ツボミや花弁は、光の量を、より多く受ける側 = 南側のほうが、早く、元気に、勢い良く成長するため、ツボミや花が、光が来るのとは逆方向の北側に傾く (曲がる) ように成長するからだそうです。
モクレンのように、そういう性質が、より顕著に表れる植物を 「方向指標植物」 (コンパス・プラント) と呼ぶのだそうです。
そんなテレビのお天気オジサンのうんちくを名古屋のオッサンブログで知りました。 でも、オイラはモクレンとコブシの違いが判りません。
テナことに関係なく、オイラは善福寺川緑地へ散歩です。
戦場に学生を送りだした教師が戦後、彼等への鎮魂を込めて作り上げた“陽光桜”が見頃を迎えておりました。 ちなみに、愛媛・愛南の紫電改記念館の陽光桜はもう散ったそうです。








満月を迎える来月4日(月食が見られる)にはソメイヨシノが満開らしいです。






そんな桜並木をノンビリ散歩で「春そして桜」を満喫してきました。


早咲きのオカメ桜まつりが開かれてました。


寒緋桜と豆桜(富士桜)の交配種から生まれました。


斜面に数十本が植えられ、足場が良くありません。


近ごろでは珍しい未整備の山間の農家さんが開放してました。


朱の濃い蕾は照手桃だそうです。 これから開くそうだ。


イギリス生まれのオカメ桜に惚れこんで植えてくれたのであろうか?


マイナーな桜まつりでしたがそれなりに訪れる人もたくさんでした。
そして、夕方6時前にはいつもの富士山スポットでのワンショットです。

邸内は整備されてましたが画角的なショットが見つかりませんでした。


銅像の裏側から彼が視つめるアメリカ・サンフランシスコを撮りたいと行って来たのだが足元が悪く写せませんでした。 その上、彼は富士山も嫌いなようで借景となるショットもありませんでした。 (銅像の右上部に白い富士山がチラッと)


季節ガラの“サクラ”は押さえました。 (種類の名は?)
道路をはさんだ反対側には三井の別荘が開放されてました。


高台の展望台から小田原・伊豆半島のパノラマです。

写真的には物足りないショットしか撮れませんでしたが青空散歩にバツグンな春日和でした。 (明日につづく)


明治30年8月10日 新潟県柏崎に生まれる。
大正8年、早稲田大学政経学部卒業。
大正13年、柔道師範として渡欧して柔道の普及に活躍。
大正14年、画家藤田嗣治の推薦により、フランス画壇の登竜門として名高いサロン・ドートンヌ展に連続二回入選。
昭和8年、帰国。講道館の審査員となる。
昭和24年から、ラジオ全盛の時代のバラエティー番組の元祖ともいえる国民的人気番組「とんち教室(NHK)」 にレギュラー迷回答者として人気を博す。
昭和49年没後は御子息がコレクションを継承し、「石黒敬七コレクション保存会」を作り、 出身地の新潟県柏崎市に「とんちン館」としてコレクションが展示。 (残念ながら現在は閉鎖されてます)
柔道家でありながら、当時かなりハイカラな文化人でありました。
左縦文字にもありますが「米山の雷神」です。

♪米山さんから雲が出た 今に夕立ちが来るやら・・・♪
有名な(テナことないか)民謡・三階節を描いた色紙が残されてます。
(「三階節」考察を書いた地元の研究家がおります)
彼は珍品・迷品コレクターとも知られています。

明治〜大正期の政治家で総理大臣も勤めた西園寺公望(さいおんじきんもち)が所有していた、真物の名刀正宗と思ってしまうが、そうではない。明治4〜13(1871〜1880)年にパリに留学していた若き日の西園寺が、現地の名士たちに売りさばいていたものの1つといわれる。
実はこれは、西園寺が遊興費を稼ぐためにパリの古道具屋で無銘の刀を買い求め、彼が“正宗”と銘を記し、鍛冶屋に彫らせたもの。“いわく・因縁”を持つ、石黒コレクションにふさわしい逸品である。
オイラの生まれ故郷・柏崎出身のチョイ有名人の紹介でした。

円空(1632-1695年)と木喰(1718-1810年)の仏像展に行って来ました。


円空は美濃国(岐阜県)に生まれ、32歳の時に造像を始めます。以来30年余りの間に尾張・飛騨・美濃を中心に関東、東北、北海道まで足を運び,鑿(のみ)や鉈(なた)の跡が荒々しく残る力強い像を数多く遺しました。円空は生涯で12万体を彫るという誓願を立て、現在も5400体余りの像が確認されています。


円空の入滅から23年後、甲斐国(山梨県)に生まれた木喰は、22歳で出家し、56歳のときに諸国行脚の旅に出ました。北海道から九州まで広く巡り、61歳になって神仏像を彫り始めます。80歳で1000体、90歳で2000体の造像を発願した木喰は、柔らかく丸みを帯びた像を各地に遺し、720体が現存します。


オイラが木喰さんを知ったのは故郷・柏崎の寺や民間御堂に祀られて居て、数ヶ所を見て廻ったことがあったのです。 その木喰さんの生家が存在することを知り、山梨県身延町古関丸畑にも行ったことがありました。
木に梯子を掛けて鉈を振るう円空の姿の画が残されてます。

そんな故事を知ってか知らずの偶然か? 木喰さんが・・・

生木に彫られた仏(観音さん)も数十年?で枯れて?切り倒れ、後世に残されました。 ありがたやアリガタヤ・・・・・
OMAKE 2007年7月16 日の新潟県中越沖地震の悲劇
木喰さんの閻魔像が安置されていた柏崎の十王堂が全壊してしまいました。
歯が欠けてます

シッカリ疲れました。 タップリ2時間見入ってしまいました。 オシマイ。
1万円弱のお手軽コンパクトデジカメです。

ですが、25㎜ワイド(0.7倍のコンバージョンレンズ装着可)やマクロに連写と盛り沢山の機能付きです。 ただ、オートモードしか なく、絞り・シャッター優先モードがありません。
ですが、噴水オブジェにあえてチャレンジしてみました。



撮影データ S1/400 F4.4 ISO640 約 10コマ/秒の連写





撮影データ S1/1000 F4.4 ISO640 約 10コマ/秒の連写



撮影データ S1/250 F12.4 ISO640 約 10コマ/秒の連写



撮影データ S1/500 F12.4 ISO640 -1.0 約 10コマ/秒の連写
(各写真は左クリックで796×597ピクセル、さらにクリックで1600×1200で見れます)
シャープネスに欠けピントが甘いです。 シャッタースピードも『?』です。
まぁ、お手軽コンデジの限界なのでしょう。
一眼デジカメがほしいゾー うらやましゼー と、書いておこう。