2016.10.31  秋フェス
 永福町の秋フェスです。 恒例の信州サーモン、今年は?
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 毎年信州サーモンフライのハンバーガーでしたが、今年はダイレクトに味わってほしい?とサーモン丼でした。 オイラは行く時間が遅かったので食べれませんでした。 あぁ残念!
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 フクニワでは子育て中のパパさんが休日を楽しんでいました。
 富士山、今日も見れそうに現れてくれませんでした。  アァ残念!


2016.10.30  0‐951
 オォー0系新幹線ではないかー  ブブゥ、間違いです。
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 鼻先が0系の約4.5mから約6.5mへ2m延伸され、アルミ合金製構体です。 1969年3月に製作された2両編成の新幹線951形試験車両です。
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 1972年2月24日、開業前の山陽新幹線相生 - 姫路間の上り線で、当時の日本国内の鉄道車両最高速度記録286km/hを達成した。
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 広くもない車内が資料館としてオープンしております。
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 2両しか製造されなかった1両だけが国立市の鉄道総合技術研究所の正門向かいに“新幹線資料館”として現存しておりました。


 近くの和食屋で“ホウボウの唐揚げ煮びたし”をいただきました。
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2016.10.29  渋谷にて
 渋谷のハチ公前の青ガエルがハロウィーンに変身してました。
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 無車輪の車体は茶色帽子?と黄色の“ふわもこ”仕様になってました。
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 西武百貨店・渋谷店7Fの催場コーナーです。
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 有田焼創業400年事業として、世界各国から16組のデザイナーが参加し、商品開発を進めてきた新ブランド「2016/(ニーゼロイチロク)」が展示されてました。
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 2016(株)なる新会社を設立してまでの有田焼の新ブランドなれど、「らしさ」もなく地味な印象しか残りませんでした。
 たぶん、作家さんたちの「有田焼」への想いや情熱が熟成昇華されてないのではなかろうか・・・
 モノ余りのデフレにあって手頃価格とはいえ高級器を使っての食事の優雅さを日常に取り入れる豊さを忘れた人々に“感動”を呼び起こすことはできるのであろうか?


 映画『スター・トレック BEYOND』を見てきました。

    

 「宇宙、それは人類に残された最後のフロンティア」といういつものモノローグで始まりながらも、何分か後には「宇宙には未知などない。ただ、隠されているだけだ」という前向きな陽気さ満載のジェットコースタームービー。
 さらに、未知の強敵と思われたものが、実は・・・というのも、定石的だが、暇つぶしには面白い映画でした。
 欲を言えば、古い時代の大音響ロックが敵のコントロールシステム破壊に一役買っているなら、例えば映画「駅馬車」のテーマ(ロックバージョン)だったり、ブルース・スプリングスティーン「Born in the USA」(詞は帰還兵の哀歌らしいが)の力強い叫びだったりしたら往年のスタートレックファンにも受けるのではナンテ思いました。


  Bruce Springsteen - Born in the USA 



2016.10.28  航空記念館
 1903年(明治36年)、ライト兄弟が「フライヤー1号」で世界最初の動力飛行に成功し、以降欧米における航空技術は急速に実用化され始めました。 わが国でもこの動きに刺激されて、航空技術を研究するための臨時軍用気球研究会が1909年(明治42年)7月に創設されました。
 1911年(明治44年)4月1日、所沢試験場が開設され、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と格納庫、気象観測所を備えたわが国最初の飛行場が誕生しました。 同月5日、徳川好敏陸軍大尉の操縦するアンリ・ファルマン機が高度10メートル、飛行距離800メートル、飛行時間1分20秒を記録し、これがわが国最初の飛行場での初飛行となりました。

 以後、太平洋戦争敗戦まで使われ、戦後は米軍飛行場となった。
 しかし、昭和40年初頭より返還運動が盛り上がりました。
 昭和47年、航空記念館や公園等の整備などの跡地利用計画を決定。
 平成5年、日本における航空の発祥として所沢航空発祥記念館開館。

 
 西武新宿線・航空公園駅下車で所沢航空発祥記念館へ行ってきた。
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 実機展示は少ないものの飛行原理など模型を使いわかりやすく説明。
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 日本で初めて空を飛んだとされる浮田幸吉が紹介されてました。
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 もちろん、二宮忠八もパネルになってました。
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 1911年(明治44年)11月には国産初の会式一号機が所沢を飛んだ。
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 エンジンは外国産ですがモノ造り日本ってスゴいですね。
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広くもない格納庫を模した館内をウロウロやっぷり楽しんできました。

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   OMAKE  種子の不思議な知恵

 春先などに飛来する松花粉の2000倍顕微鏡写真です。
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 核の両側に気泡を持ち、竹トンボのように空中を漂うそうです。



2016.10.27  虹の翼
 京都新聞に昭和53年に「茜色の雲」という題名で連載された吉村昭の単行本「虹の翼」を興味深く読み終わりました。
 ライト兄弟が世界最初の飛行機を飛ばす何年も前に、独自の構想で航空機を考案した奇才・二宮忠八の波乱の生涯を描いた傑作長篇。 特に彼の生涯を追いながら、日清戦争等の社会動静や飛行機誕生の黎明期の世界と人物などを網羅した500ページの長編でした。

 まずは二宮忠八とは・・・
 慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 1936年(昭和11年)4月8日。
 伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。

 八幡浜の商家の四男坊として生まれる。
 父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。
 忠八は生計を得るため、丁稚奉公の傍ら自ら考案した凧を作って売ったりもしていた。
 22の時、徴兵され入隊し、薬学経験から衛生兵となる。

 1889年11月(23歳)、行軍演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた。

 烏(からす)型飛行器 (飛行器とは忠八命名であり、飛行機の事)
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 主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。
 推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。  明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。

 玉虫型飛行器 (玉虫ヒントに外羽と内羽の二双翼機)
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 2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。 動力源については未解決であった。

 日清戦争時に衛生兵として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。
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 長岡は「戦時中である」という理由であった。
 また大島に戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。


 上申書が残っていたり、1991年には玉虫型のレプリカを作り飛ばしたり。と日本人ってスゴイですねー  また、忠八の思いついたとされる香川県まんのう町追上の樅ノ木峠には二宮飛行公園・二宮飛行神社・二宮忠八飛行館などが整備されています。


 軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は1898年、32歳の時に独力で開発することを決意し退役します。
 製薬会社に入り、支店長まで出世し、4年後に飛行器開発を本格的に再開。 1908年に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジンを自作する構想を立てた。
 その矢先にライト兄弟の初飛行(1903年(明治36年)12月17日)を知る。

 明治という時代の情報伝達の遅れが悲劇を招き、軍閥や上下関係の因習からはじかれた忠八はどんな想いで枠組の出来上がった飛行器にハンマーを打ち振り開発を断念したのであろうか・・・

 1909年(明治42年)にマルニ(食塩メーカーで現存)を創業。
 以後、忠八は飛行事故で亡くなった人々の鎮魂を祈り、京都府八幡市に飛行神社を設立しました。


   OMAKE  残念、しかし。

 忠八26歳の時、烏型飛行器を飛ばしたのだがゴム動力の模型飛行機はフランスで20年前の1871年にすでに製作され飛行していた。

 28歳の時、玉虫型飛行器の上申書を提出しており、もし軍の新兵器開発となっていたら?著しく状況は変わっていただろう。
 しかし、忠八構想機では実際飛べなかったようです。 レプリカ製作時には原設計には無い垂直・水平尾翼を有しているなどの改設計が加えられておりました。



2016.10.26  見れたゾー
 いつもの屋上、5時のメロディーが鳴りだしました。
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 今日も富士山は見れないか。 と諦めかけたらー
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 日没後のコンデジ限界の富士稜線が暗闇に溶け込みました。 
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2016.10.26  無題
 自称ナチュラリストの高樹沙耶が大麻所持で逮捕されました。
 ワンボックスの警察車両に乗り込む被疑者の映像がテレビに流れてましたが警察からの依頼要請で撮影でしょうか?
 過去に吸引歴があろうと家宅捜査や逮捕令状はどのように発行されたんでしょう。 内偵を進めるにしても隠密は無理だったでしょう。 まったく違ったルートでの売人逮捕の供述からブツの配達等で逮捕されたが妥当と思えるが警察発表はないでしょうね。


 この2週間くらいの強制散歩の写真貼り付けです。

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 トキドキお会いするフクニワでの知人Hさんからお借りしました。

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 青空が広がった日もありましたが、しばらく富士山を見てないナー


 桜の代紋を背負う合法の組員の多くはトッぽく緊張感に欠けてます。
 オイラのブログ友の抜粋掲載です。 「私の畑を荒らす徘徊老人」

 私がこれまでの経緯を話すと、結構年配の警察官が、「それでお宅は警察に何をしてもらいたいんですか?」と言う。私の裡でカチーンと音がしました(笑)。
 「私は毎日のように畑を見に行き、現行犯でそいつをとっ捕まえて叩き殺してやりますから、その時私は110番に電話しますよ。警察はすぐ来て現場検証をしてください。」
 「ウオーフォッフォファフォフォ・・・」と年配の警察官は笑った。
 「だ~から、そういうことにならないように警察は犯人を逮捕してください。私は3年半我慢してきた、もう我慢しませんよ。だって不法侵入、器物破損、窃盗、そして奴は刃物を持ち歩いているようだから銃刀法違反じゃありませんか。普通の人は立ち入り禁止と書いてあれば入らないの、こいつは普通じゃない、きっと前科がありますよ。この辺りに居る前科者の写真を見せてくだされば、私が指差してあげますよ。」

「ガンバリヤー 精々5年の我慢。務所に差し入れを持っていくぞー」



2016.10.25  史跡巡り
 「丸に十」の白幕がまぶしい治水神社(岐阜県海津市海津町)です。

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 1927年(昭和2年)起工。地元の人々の浄財で昭和13年建立。
 薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)及び薩摩藩士84名が祭神です。
 毎年10月25に秋季大祭が行われます。


 明治時代に西田家当主となった西田喜兵衛は、『薩摩のご恩、忘るべからず』という父祖からの言い伝えを守り、1900年(明治33年)に宝暦治水碑を建て、時の総理大臣山県有朋や内務大臣西郷従道のほか、数多くの高官の参列を得て除幕式が厳粛かつ盛大に挙行されました。

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 右は、岐阜県羽島市にある竹鼻別院にある幕府側の自害者・竹中伝六喜伯の墓です。


 鹿児島市内にも平之町に平田靱負像や薩摩義士碑があります。

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 行って見たいですねー 何をするわけでもありません。
 もちろん、宝暦治水の土手をノンビリ歩いてみたい。
 かなわぬ夢と知りつつ他人さまの写真を無断使用して、空想旅に出かけてみました。

 

 今年は台風の当たり年でした。 (過去形でいいかい?)
 同時に大雨の河川崩壊被害が各地で起こりました。
 なので、チト治水事業の歴史を調べてみました。
 その中に土地勘もゆかりもない美濃で薩摩藩が幕命で強引に押し付けられた治水工事があったことを知りました。

 1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
 当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。
 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

 4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。
 8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。
 翌年5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。 その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は、「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」 であった。

 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入の記録が残る。


 「宝暦治水事件」Wikipediaからの抜粋掲載でしたが、薩摩のブログ友からは南日本新聞「宝暦治水250日」薩摩藩士たどり語りで90回の連載があったとのこと。
 ウン。有栖川公園の都立図書館には全国の新聞が集められ保存されているが読みに行ってみるか・・・



2016.10.23  何だかナー
 約150年くらい前の慶応四年戊申三月に、明治天皇が示した明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」が発布されました。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ  (現代表記/広く会議を興し、万機公論に決すべし)
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ  (上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし)
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス  (官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す)
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ  (日来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ  (智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし)

 明治天皇即位。改元の詔書が出されたのが明治元年・1868年10月23日です。


 菅官房長官は「再来年は明治元年から150年を迎え、わが国にとっても一つの大きな節目だ。明治の精神や日本の強みを再認識することは極めて重要であり、明治以降の歩みを次世代に残すことが大事だ」と述べました。
 政府は今月11日付けで、内閣官房に「明治150年関連施策推進室」を設置し、準備を進めることにしています。

 「明治の精神や日本の強み」ってナンでしょうか?

 オイラの歴史認識では明治とは万世一系・富国強兵の時代であり、肯定も否定もできない国の歩みです。 その結末が昭和20年8月15日の敗戦です。

 学ぶことは重要です。次世代に残すことも大事です。
 ですが「長州出身の政治家として恥じない結果を出していく」という大時代な非自律的自尊心を持つ安倍首相には主語のない日本文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を贈りたい。