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2013.06.07  鹿鳴館
   今日のBGM「この国JAPAN♪」 


 鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもある。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」と呼ぶ。

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 計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。
 彼は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待して日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。
 、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成。設計はジョサイア・コンドルであった。

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 しかし、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑されていた。

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 井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は明治20年 (1887) 9月に外務大臣を辞任した。鹿鳴館時代はこうして井上とともにその短いが燦然とした歴史の幕を下ろすことになった。


 外観はレンガ造りで1、2階をアーケードベランダとし、窓や出入り口をアーチ型で統一したルネッサンス調の意匠を採っていたが、ベランダのアーチを支える二階の柱は、徳利のようにくびれ、ヤシの葉が柱頭を飾り、手すりにはアラビア模様の透かし彫りを施すという、インド・イスラム風の意匠も採り入れていた。
 このエキゾチックな意匠の建物も「チグハグな印象」とされ芳しくなかった。さらにコンドル自身も鹿鳴館については口を閉ざし感懐を述べていない。

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 江戸東京博物館に再現された模型も資料・図面も残っておらず、少ない写真からの図面起こしからミニチュアが作られたそうです。

 数奇な運命を背負わさられた建物は1940年(昭和15年)に取壊された。
 しかし、その一部が残されている。

    314c116.jpg  東大工学部建築学科に保存されている階段・手摺。

  chandelier3.jpg 平井・燈明寺に残るシャンデリア。


 たった4年であったが、歴史・教科書などで誰もが知る「鹿鳴館」は時代のアダ花だったのであろうか?


 小説家:北森鴻は大胆にも「この建物はトーマス・ウォートルスの設計ではないか?同郷の先輩の罷免に対し、趣意返しをした。 その為、自らも7年の契約後は政府機関の設計から外され、民間設計事務所を立ち上げたのであった。」 と大胆な仮説小説を書いたのである。
 当然、その背景にはバックボーンの井上薫の失脚も絡んでいた。


 昨日のトーマス・ウォートルスの設計の大阪の造幣寮と見比べてほしい。



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