歌川広重(寛政9年・1797年~安政5年・1858年)の「名所江戸百景」(全119景)には富士山と富士塚が描かれているものがあります。

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 左は「第24景・目黒新富士」 右が「第25景・目黒元不二」 です。
 両方とも江戸期のまま残されておらず、目黒元富士は1878年に取り壊され、高さ12mの頂上に建てられた浅間神社と石碑類が上目黒氷川神社内に遷座されてます。 (オイラの探訪は2010.05.18だった)


 恵比寿駅からタラタラ坂を上りながらの散歩です。
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 馬頭観音があったり、庚申塔が残されたりの住宅地の頂です。
 
 今日の散歩は目黒新富士が「文政2年(1819)に、幕臣の近藤重蔵が別邸内に築いたもの」と知り俄然興味が湧いたのである。

 近藤重蔵の名は“文政の三蔵”として、前からチト気になる人物でした。
  (オイラブログ・2008.06.11蝦夷三蔵ものがたり 参照 )

 近藤重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年)←明治政府誕生の約百年前 - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣・探検家。

 父の隠居後に御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務。 松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。 長崎奉行手付出役、支払勘定方、関東郡代付出役と栄進。

 寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度蝦夷地へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献。

 文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、将軍・家斉に謁見を許される。その際札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。

 重蔵は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した。
 目黒新富士・近藤富士・東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。
 文政9年(1826年)に上記の三田の屋敷の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられる。

 文政12年6月16日(1829年7月16日)死去。享年59。


 昭和34年まで残っていたが現在はマンションになり、児童公園に石碑があるだけです。
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 目黒崖線の高台に位置する公園から富士山方面を遠望すると、
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    中目黒GTタワーや高層ビル群で富士山は見えませんでした。

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 絶壁のような地形に100段近くの階段があり、見上げれば・・・

 まぁ、これも富士塚巡りのひとつなのであろうが個人が造り(庶民に解放していたのだろうが)管理するには時の流れが無情過ぎます。

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 そして、恵比寿と云えば、珈琲専門店"ヴェルデ"で休憩です。
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         自家焙煎の濃いめの珈琲は6352歩を癒してくれました。






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