2014.07.09  四谷散歩
 江戸末期、巷間で「位の桃井 、力の斎藤、技の千葉」と称された剣術道場があった。
 しかし、、「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷信友の門下弟子に榊原鍵吉が居た。 天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と言われた。

 明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けた。また、死ぬまで髷を解かなかった。 などの逸話もあるせいか?
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       右はオイラの好きな河鍋暁斎画『榊原健吉山中遊行之図』。

 明治27年(1894年)9月11日、脚気衝心により死去。享年65。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。
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 幕末の逸話に。 慶応4年(1868年)、上野戦争のとき、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻たそうだ。

 だが、輪王寺宮は背負われて逃げるヤワな宮ではなかった。 寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。
 明治政府樹立後、明治天皇の命により還俗し、プロイセンに留学。
 陸軍に籍を置き、台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り台南にて薨去。 1895年10月28日(満48歳没)国葬にて豊島岡墓地に葬られた。
 その直系子孫に旧皇室の異端児?の竹田恒泰氏が居る。

 タイトルは忘れたが、榊原健吉や輪王寺宮の一代記を読んだ記憶が甦る。




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