富山弥兵衛(とみやまやへえ)は1843年、薩摩藩士の子弟として生まれる。
 21の時、伊東甲子太郎の口利きで新撰組に入隊します。
 一説には島津久光の側近の内田政風の命令で密偵間者として送り込まれたのであった。 (伊東と大久保利通の面談をセッテング)
 のちに御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃したが失敗。 負傷する。
 この負傷の為に、赤報隊結成には加わらず、新政府軍の指示で越後方面の探索に向かう事になる。
 しかし、水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して殺害された。 享年26歳。

 生前の辞世?の句が残されております。

 『 から人は 死してぞ止めめ 我はまた なな世をかけて 国につくさん 』

 遺体は戦線にて埋葬された(出雲崎町吉水・教念寺)が、のち新潟県上越市高田に合装墓が造られたという。  のち、靖国神社に祭祀された。


 ちなみに薩摩藩士族の富山(とみやま)氏は平安時代から島津荘の荘官(弁済使)として大隅国に在地していたという由緒ある家柄で、安元2年(1176)に大隅国百引村(現鹿屋市輝北町)の弁済使に補任された際の補任状が現存しています(鹿児島黎明館所蔵)。また、大隅半島の肝属郡に富山の地名が残っています。
 しかし、残念ながら、富山弥兵衛の眠る墓は故郷・薩摩にはありません。
 「殉国の志士」として、靖国にて安らかに眠られん。  アァ合掌なり。


   OMAKE  岡部孫四郎WHO?  

 「通信職務遂行のため戦死した新聞記者が同神社に合祀されることは全く今回が始めてで遺族並に本社の光栄はこの上もない次第である」
 岡部孫四郎は盧溝橋事件(1937年7月7日)勃発直後、東京朝日新聞の特派員として北京へ派遣され、7月28日、北京郊外で戦闘を取材中、頭部に銃弾を受けて亡くなった。 享年29歳。
 日中戦争からアジア太平洋戦争突入までの戦没記者は、朝日新聞だけでも16名。 その数の多さから、いかに激しい戦闘が繰り広げられていたか想像に難くない。
 1938年10月7日付け東京朝日新聞に載った一文が「カギ括弧」である。
 そんな事実を従軍慰安婦問題で迷走を続ける朝日新聞関係者は知っているのであろうか?

 単にジャーナリスト魂を賞賛するだけでは語れない話ではないか?
 「あの戦争は侵略戦争だった」と言えば、岡部はどう思うだろうか。
 「大東亜の解放を信じて散華した日本の将兵を愚弄するな!」と憤激することであろう。

 「ブル新・朝日よ 歴史認識を見直すのはオマエでないか? 自己批判せよ」





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