伊豆の長八から全生庵・山岡鉄舟を知り、彼の一代記「命もいらず名もいらず」を読み終わりました。
 幕臣である勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3名を称し、「幕末の三舟」のひとりです。
 オイラの知るアバウトな幕末明治期の時系列が彼の存在により、点から線に結びつき、なるほどねーそうだったんだ。と興味深くページをめくりました。

 たとえば、尊王攘夷志士・清川八郎の浪士組結成に実質幕府隊長として伝通院に立つ。 エェ?清川って倒幕思想でなかったかい?
 京都に着いた一行は朝廷への建白書の受納を受け、江戸に反転。 されど、清川は麻布にて幕府刺客に惨殺される。 首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬った後に遺族に渡した。そうな。
 当然、鉄舟は謹慎。 浪士組から袂を分けた芹沢鴨・近藤勇らは会津藩お預けの新撰組へと進み、壬生の狼として暴れまわるのであった。

 勝の意を受けた鉄舟は益満休之助(薩摩藩士なれど清川繋がりの旧知)と共に駿河にて西郷と面談。 この駿河で清水次郎長と知り合い、後年牧ノ原開墾を行うのであった。

 西郷・勝の推薦で明治天皇の侍従として10年間仕える。
 深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが伝えられてます。
 武と長の心得を臣として実践し、信頼厚く致仕後もワインを御下されたり、御典医派遣されるなど信頼が厚かったそうな。

 明治21年7月19日。 あけがた、烏の啼くのが聞こえた。そこで「腹張りて 苦しき中に 明烏」と辞世の句を吟じた。
 午後七時半、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えた。九時、一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座した。九時十五分周囲のすすり泣きの中、瞑目して往生した。数え年五十三歳。


 山本兼一氏の上下2巻1000ページの長編小説がおもしろかったです。



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