2016.02.08  奇妙な橋
 好きなことや興味のあることにアンテナを張っていると意外なものが引っかかりますよね。
 先日、鎌倉時代の大橋(長さ40m幅7m)の橋桁柱の遺構を見た前後に「三河尾張の国境橋が変わっていた」とのことで早速検索して見た。

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  尾張と三河の境界をなす境川に掛かる境橋。  (現在の刈谷市と豊明市との境界橋)

 60万石の御三家尾張藩は所帯が大きいため公共投資も分散され、木造で半分を負担。対して刈谷藩は譜代ながら23000石ですが石を用いて造られた。
 そして、奇妙ではあるが人々の往来に役立ってました。


 脱線話です。
 刈谷は戦国期には家康の母の実家水野家にの支配する城地であった。 だが、藩主家の交代の非常に激しい藩でした。
 伊勢桑名藩主の松平(久松)定勝の六男、松平(久松)定政が2万石で入るが、彼は天下に改易浪人が満ち、旗本御家人の窮乏もただならぬ、と幕政批判の上申書を提出し、たった2万石ではあるが、自分の刈谷2万石を返上し、窮乏する旗本御家人に分け与えて欲しい、と言って、頭を剃って托鉢坊主となり、子の定知とともに、江戸市中を托鉢して回りだす。
 松平(久松)定政の批判は、趣旨としては、のちの由比正雪の乱の起こるを予見し、幕政の矛盾の実態を鋭く突いたものであったが、家康の異父弟に繋がる藩主自らがこのような行動に出られては、幕府としては、この托鉢坊主を放置するわけにはいかず、定行の行動を「狂気」として、改易とし、宗家の伊予松山藩主松平(久松)定行に預けられた。  テナ史実が残ってます。


 さて、橋に話を戻すと築年等ほとんど資料がないらしい。 慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられてほどなく架けられた橋らしいがー  オイラが調べきれなかっただけなのだが・・・
 でも、この画が描かれている『東街便覧図略』の”猿猴庵”WHO? と明日に続きます。


 OMAKE  行政区の違いっておもしろいですね。
 武蔵小金井駅北口に「渡れぬ切断された危険なる歩道橋」がありました。
 数年前に何度か行ってブログアップしたことを思い出しました。

 名古屋にあった日本最古の歩道橋が撤去されたり、浅草寺に江戸最古の石橋を渡ったり、はたまた鹿児島の石橋記念館へ行ったり。 と、やっぱりオイラは好奇心の強い物好き者であることを自覚しました。



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