2016.05.14  将門の首塚
 自ら「新皇」を名のり、京都朝廷へ戦いを挑んだ漢(おとこ)が居た。
 不当な中央からの搾取から地方自治・独立を掲げ奮戦するも敵の矢に当たり戦死。その遺体は京都に運ばれ、獄門さらし首にされたが3日目突如突然宙を舞い「我が命は関東にあり」と飛んで行った。

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 そして、着いた先は各地にあるが、最も有名なのが武蔵国豊嶋郡芝崎村(現・東京都千代田区大手町一丁目2番1号外)であった。

   HOSOKU
 京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きが残る地があります。
 また、美濃国南宮大社では、平将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく平将門の首を射落とした地に平将門を神として崇め祀ることによって再びその首が、関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたと言われる御首神社(みくびじんじゃ)が岐阜県大垣市荒尾町にあります。
 (その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある。)


 無念の死を迎え、怨霊漂い怨念渦巻く「将門の首塚」です。
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 諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、神田明神の別当として将門信仰を伝えてきました。
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 「怨念をまきちらす将門の霊よ。速やかに冥途へ帰りたまえ」と蝦蟇蛙が奉納されてました。

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 新社屋建設進む周辺なれど、この一隅だけは尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けておりました。


   OMAKE  神田明神vs成田山新勝寺
 平将門と神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。
 これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。
 即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめる事となるため。  だそうだ。

   DASOKU  呪われた太田光
 爆笑問題・太田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂がある。


   TUIKA  岐阜県大垣市荒尾町の御首神社
 知りあいの名古屋O氏が御首神社へ行って来てくれました。



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