2016.09.12  義周の墓
 襲撃が予想された中で18歳の若者が背中を斬られ気絶した。
 若者の名は吉良義周(きら よしちか/よしまさ)。 父は出羽米沢藩4代藩主で祖父が吉良上野義央です。

 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された結果、義周の当日の対応は「不届き」として改易の上、信濃諏訪藩主諏訪忠虎にお預けを言い渡される。
 2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は左右田孫兵衛・山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだった。
 そして、翌年には実父・綱憲が死去、養母(祖母)・梅嶺院も死去と、身内の死が重なった。 宝永3年1月20日(1706年3月4日)死去した。享年21。


 彼の墓がある諏訪・法華寺へ行って来ました。
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 本堂の脇から裏手の崖淵にひっそり埋葬されてました。
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 「公よ忍べ」と云われても、家系ゆえの悲劇であろうか・・・

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 その後。 
 吉良家は吉良邸討ち入りにより改易となり、義周も諏訪家にお預けになったまま若死にして後継ぎもいなかったので「上野介の血をひく吉良家」は完全に断絶します。
 しかし、上杉家は現代まで直系の子孫があり、宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授の上杉邦憲氏が現存する直系の子孫です。
 上野介の弟の孫である東条義孚は、吉良という家名を名乗る事が許されただけです。高家に返り咲く事はなく、旗本のままでした。 事件後、高家の吉良氏は遠縁に当たる武蔵吉良氏(奥州吉良氏の流れ、足利義氏の四男、吉良上野介は足利義氏の庶長子吉良長氏の流れ)の流れを汲む蒔田氏がなりました。

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 泉岳寺へ行った。両国の吉良屋敷跡も見た。 春先には吉良町の義央の墓にも行った。そして、孫の義周の墓にも来てしまった。
 江戸城・松の廊下の殺傷事件を端とした赤穂浪士の討ち入りとその後などオイラの好奇心の旅はまだまだ続きます。



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