今年は台風の当たり年でした。 (過去形でいいかい?)
 同時に大雨の河川崩壊被害が各地で起こりました。
 なので、チト治水事業の歴史を調べてみました。
 その中に土地勘もゆかりもない美濃で薩摩藩が幕命で強引に押し付けられた治水工事があったことを知りました。

 1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
 当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。
 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

 4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。
 8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。
 翌年5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。 その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は、「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」 であった。

 薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入の記録が残る。


 「宝暦治水事件」Wikipediaからの抜粋掲載でしたが、薩摩のブログ友からは南日本新聞「宝暦治水250日」薩摩藩士たどり語りで90回の連載があったとのこと。
 ウン。有栖川公園の都立図書館には全国の新聞が集められ保存されているが読みに行ってみるか・・・



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