2016.10.27  虹の翼
 京都新聞に昭和53年に「茜色の雲」という題名で連載された吉村昭の単行本「虹の翼」を興味深く読み終わりました。
 ライト兄弟が世界最初の飛行機を飛ばす何年も前に、独自の構想で航空機を考案した奇才・二宮忠八の波乱の生涯を描いた傑作長篇。 特に彼の生涯を追いながら、日清戦争等の社会動静や飛行機誕生の黎明期の世界と人物などを網羅した500ページの長編でした。

 まずは二宮忠八とは・・・
 慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 1936年(昭和11年)4月8日。
 伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。

 八幡浜の商家の四男坊として生まれる。
 父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。
 忠八は生計を得るため、丁稚奉公の傍ら自ら考案した凧を作って売ったりもしていた。
 22の時、徴兵され入隊し、薬学経験から衛生兵となる。

 1889年11月(23歳)、行軍演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた。

 烏(からす)型飛行器 (飛行器とは忠八命名であり、飛行機の事)
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 主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。
 推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。  明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。

 玉虫型飛行器 (玉虫ヒントに外羽と内羽の二双翼機)
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 2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。 動力源については未解決であった。

 日清戦争時に衛生兵として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。
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 長岡は「戦時中である」という理由であった。
 また大島に戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。


 上申書が残っていたり、1991年には玉虫型のレプリカを作り飛ばしたり。と日本人ってスゴイですねー  また、忠八の思いついたとされる香川県まんのう町追上の樅ノ木峠には二宮飛行公園・二宮飛行神社・二宮忠八飛行館などが整備されています。


 軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は1898年、32歳の時に独力で開発することを決意し退役します。
 製薬会社に入り、支店長まで出世し、4年後に飛行器開発を本格的に再開。 1908年に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジンを自作する構想を立てた。
 その矢先にライト兄弟の初飛行(1903年(明治36年)12月17日)を知る。

 明治という時代の情報伝達の遅れが悲劇を招き、軍閥や上下関係の因習からはじかれた忠八はどんな想いで枠組の出来上がった飛行器にハンマーを打ち振り開発を断念したのであろうか・・・

 1909年(明治42年)にマルニ(食塩メーカーで現存)を創業。
 以後、忠八は飛行事故で亡くなった人々の鎮魂を祈り、京都府八幡市に飛行神社を設立しました。


   OMAKE  残念、しかし。

 忠八26歳の時、烏型飛行器を飛ばしたのだがゴム動力の模型飛行機はフランスで20年前の1871年にすでに製作され飛行していた。

 28歳の時、玉虫型飛行器の上申書を提出しており、もし軍の新兵器開発となっていたら?著しく状況は変わっていただろう。
 しかし、忠八構想機では実際飛べなかったようです。 レプリカ製作時には原設計には無い垂直・水平尾翼を有しているなどの改設計が加えられておりました。



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