2017.05.09  三家老
 盛岡・仙台・会津若松の三都さくら旅にはもうひとつの目的が。

 盛岡藩・楢山佐渡(ならやまさど)、仙台藩・但木土佐(ただきとさ)、会津藩・萱野長修(かやのながはる)の三人は奥羽越列藩同盟を結成し戊辰戦争に敗れ、その責任を藩主に替わり切腹したのであった。

 楢山佐渡  明治2年6月23日、報恩寺において刎首。享年39。
 「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士の道」

 但木土佐  明治2年5月19日、麻布・藩下屋敷にて刎首。享年52。
 「雲水の行衛はいつこ武蔵野のたた吹く風にまかせたらなん 七峯樵夫」 (七峯樵夫とは領地吉岡の西に連なる山々の木こり)

 萱野長修  明治2年6月27日、白金藩邸にて刎首。享年42。
   会津若松城内の碑  P4261547.jpg

 (注)いづれも表向き刎首斬首ですが切腹して果てたのでした。


 同時代の藩主はどうしていたか? を調べてみました。

   盛岡藩  南部利恭
 文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年10月9日、官軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父利剛とともに東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、父利剛が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石13万石に減転封された。明治2年6月18日、版籍奉還により、白石藩知事に就任する。
 明治2年7月22日、盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束し、盛岡藩知事に転任する。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。明治17年7月、伯爵となる。
 息子長男の利祥は明治38年3月4日日露戦争・井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死してます。

   仙台藩  伊達宗基
 父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主になったために罰された。のち家督を譲られて藩主に就いたものの、父の代に62万石の所領を幕府により表高は28万石に減封される。実高はもっと低く10万石程度であったために伯爵。明治2年(1869年)の版籍奉還後、仙台藩知事となり、北海道紗那支配も命ぜられた。官位は正四位。

   会津藩  松平容保  (オイラブログ:高須4兄弟 )
 慶応4年(1868年)5月、輪王寺宮・北白川宮能久親王(明治天皇の義理の叔父)を盟主とし東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟が成る。
 7月、13日に磐城平城、26日に三春藩、29日に二本松城、29日に長岡城が落城する。 
 9月22日、会津藩降伏。鶴ヶ城開城。容保は妙国寺へ移される。10月19日、容保、会津を発し東京へ護送、池田邸に永預けとなる。
 明治13年2月、日光東照宮の宮司に任じられる。3月、上野東照宮祠官を兼務し保晃会会長に就任。
 明治26年12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため死去。
  その後。]
 昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。 


 と、半日。 ネットウェーブしながら歴史のお勉強でした。

 実に愉しい旅をして参りました。次回はどこへ?と続くのであった。



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