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 吉村昭氏の「天狗争乱」を興味深くじっくり読みました。
 オイラの知らない幕末の歴史が詳しく語られておりました。

   で、「天狗党始末記」をじっくりUPしたい。

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 文久四年(1864)二月二十日、元号が文久から元治に改められた。
 藤田東湖の息子で二十三歳になる藤田小四郎は大将に水戸町奉行の田丸稲之衛門を担ぎ、幕府に攘夷決行を促すべき挙兵した。三月二十七日、一行六十三人は、府中の鈴宮稲荷神社に目的遂行を祈願し、筑波山に向かって出発した。
 水戸藩過激派による世に云う「天狗党騒乱」の旗揚げであった。
 先代の水戸藩主徳川斉昭(1800年4月4日ー60年9月29日)の「従二位大納言源烈公神輿」の位牌をのせた白木の神輿を先頭に煌びやかな門出であった。その軍勢はまたたく間に千人規模に膨らむのであった。


  背景として

 戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、1858年9月14日に孝明天皇が水戸藩に勅書(勅諚)を下賜していたのである。
 内容は
勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことを責め、詳細な説明を求める内容。
御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、攘夷を推し進る幕政改革を求める命令。
上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。

 安政の大獄とは、安政5年(1858年)から翌年にかけて江戸幕府が行なった弾圧であり、尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。

 桜田門外の変は、1860年3月24日に江戸城桜田門外にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件が起きている。

 1864年の夏ごろの出来事
  7月8日 池田屋事件 新撰組による長州藩士襲撃
  8月20日 禁門の変(蛤御門の変)
都を追放されていた長州藩が「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、会津・薩摩の禁裏御守軍と激突。(ちなみに禁裏御守衛総督は一橋慶喜)
  9月13日 幕府は朝敵として第一次長州征伐を決定


 対して藩内では天狗党に反目するお家大事の幕府命従属の門閥派が藩政を牛耳り、尊攘穏健派をも追い出していた。幕府は水戸藩ならびに周辺各藩にただちに鎮圧せよ、と命ずるとともに追討軍を派遣した。 しかし、天狗党の論旨に賛同参加する人々は膨れ上がり千人を越え、同情的な土地柄において戦いは小競り合いの長期戦になりつつあった。
 七月二十六日、水戸藩江戸屋敷において、藩主名代として、水戸藩の支藩である宍戸藩主松平頼徳を派遣して、穏便に収めようと決定した。頼徳一行が出発するや歓迎と護衛を兼ねて元家老で穏健派の武田耕雲斎が五百人余りで追った。道々、その人数は三千を越した。 門閥派は頼徳一行だけなら水戸入城を拒みませんが他は断固入れさせない。と言い張り、押し問答に。裏で幕府軍と共に一行に対し、名代とは名ばかりの烏合の衆と決め付け、戦闘を挑んだ。充分な装備もないままの頼徳軍を応援すべき天狗党本隊との合流は頼徳を悲劇に巻き込むのであった。
 ようやく、二ヶ月後の幕府追討軍総括田沼意尊と対峙面会した時には松平頼徳は完全に賊魁の汚名を着せられ、弁明弁解の機会も与えられず、十月五日に切腹を申し渡されるのであった。

 そもそも、水戸門閥派・幕府追討の連合軍と戦ってきた集団は一枚板ではなかった。過激な藤田派・同調諸派・他藩士集団や穏健派の武田派・潮来勢などの寄り合い所帯であった。十月二十六日、それぞれの幹部が集まり今後の軍議が開かれ、どのように行動するかが論議された。
 「攘夷決行を促すために一橋慶喜様のもとへ参ろう」
 こうして十一月一日太子村を出立。60歳近い老女と乳飲み子を背負った女などの婦女30人を含む千余名の武装集団は西上・京の都を目指すのであった。


 ここから京の都を目指す千人の武装集団の大移動が始まるのだが、この続きは明日へ続くnoda

 



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