FC2ブログ
   昨日の続きです。 長くなりますがお付き合いください。


 saijixyou.jpg


 「京の慶喜様に直訴しょう」と武田耕雲斉率いる天狗勢は十一月一日太子村を出立。
 この半年の騒動は街道各地に伝わり、恐怖と共感の相反する噂が流されていた。通過するどの藩も一様に向かえ撃つ準備を整えながらも、
 「城下を通過するなら微力ながらあくまでも戦うが、間道を通ることは妨害しない」
 「わが藩主は幼年であり、藩も微力です。わが方で間道を御案内いたすが、いかがでござろう」
 などの申し出に警戒しつつも異存の無い一行。
 六日、鹿沼手前で日光奉行の使いが密かに訪ねてきて、200両差し出し、神域である日光にはいらぬよう要請した。
 十一日夜、太田宿泊まりとなった。休養のため二泊し、875両を差し出させていた。
 十六日、下仁田で追いついた高崎藩八万二千石の譜代藩として三百兵で挑んだが多勢に無勢の戦死者三十六名を残し背走していった。同時に捕らえた密偵高崎藩士七名を切腹させた。
 信州の諏訪・高島藩の藩主諏訪忠誠は老中に昇進し、外国御用を担当していた。天狗勢の進行が甲府ではないか、と予想し、松本藩と協同して和田峠に布陣した。
 二十日午後、西日を背にし軍師山国兵部のたくみな戦術で両藩連合軍を撃破して、諏訪から伊那街道に入っていった。


   エピソード ①
 飯田城下では商人達と町役人が三千両の献金を差し出すので、藩との戦闘および城下放火をやめてほしいとの申し出があり、天狗勢も回避の方法を取り、間道を進んだ。何事も起こらず無事だった飯田城下では過ぎてしまえば約束事の破棄は当たり前と支払う素振りすらみせなかった。しかし、座光寺村名主の北原稲雄は「信義に反する」と商人たちから金を集め、後日追ったがその重さと警備・追討軍に怪しまれ、届けることは叶わなかった。
   エピソード ②
 駒場・馬籠・中津川の進軍・行進は島崎藤村の「夜明け前」にも描かれている。
   エピソード ③
 天狗勢の横田藤四郎は和田峠で戦死した三男藤三郎の首を今もって渋紙につつんで肌身はなさず持っていた。埋葬してやってはどうかと推める者もいたが、藤田は「見知らぬ地に埋めるのは不憫でならぬ」と頑なに拒んでいた。 
 尾張藩領中津川宿本陣に宿泊した時、北原稲雄の叔父である市岡長右衛の熱烈なる歓迎をうけたのである。市岡は尊皇攘夷を信奉し、その志篤く、五平餅・赤飯・五目飯を大量に炊き、天狗勢をなぐさめるために待っていたのであった。
 そんな市村に「横田の息子の首を埋葬して欲しい」とたのんだ。
 「確かにお預かりいたします。子々孫々まで回向を絶やさぬよういたしますから、御安心下さい」
市岡は頭を下げている横田に言った。武田らは、その好意を謝した。


 十一月三十日、天狗勢は岐阜手前の鵜沼宿(各務原市)に到着していた。このまま、中山道を垂井・関ヶ原・守山・草津をへて、大津から京都に入る予定でいた。しかし、行く手には大垣藩・彦根藩の強力な譜代藩を通らねば、都へは行けないのであった。そして、長良川の対岸には桑名藩を加えた幕府軍が大砲を据え陣を敷いていた。

 天狗勢は尊皇攘夷を朝廷に訴えるために秩序正しく旅を続ける純粋な思想集団として、その噂は京まで流れてきた。
 十一月二十九日、禁裏守衛総督一橋慶喜は朝廷に願書を提出した。その許可書には、「追討」の文字はなく「出馬」とあり、「降伏した折には相当のはからいをするように・・・」と、寛大な扱いをすることをほのめかしてあった。 
 十二月三日、慶喜は加賀藩一千・会津藩五百・小田原藩五百・福岡藩二百・水戸藩四百と京都所司代百の兵と砲七門を率いて大津を目指した。

 同じ十二月三日、衝突を避けるべく間道を進む天狗勢は雪と険しさに阻まれながらも蠅帽子峠に差し掛かっていた。この東への山道は細く、乗馬荷馬合わせて百頭と十二門の車台つきの大砲を引いての行軍は過酷で困難をきわめた。
 十二月八日、二尺(60cm)の積雪に野宿に近い日々を乗り越え一行は今庄宿に辿り着いた。久しぶりに畳にふとんを敷いて夜をすごせることに胸をはずませ、火をおこし米を炊き、酒を飲み、にぎわいは増した。留まること三日。

 慶喜率いる幕府軍は琵琶湖を船で渡り、今庄宿の隣の越坂村に陣を構えていた。加賀藩千兵を一番手として総勢五千。新保村の北方には千二百。敦賀付近には後陣として三千三百。天狗勢はおびたたしい大軍に取り囲まれることになったのである。

 京を発つ時、慶喜は密やかに武田宛に「速やかに投降せよ」の密書を届けるよう密偵を放っていたが尾張藩に捕まっていた。 その上、薩摩藩の謀略工作にあっていた。 すなわち、戦闘を回避して天狗党を利用して幕府中枢の転覆失脚をもくろんでいる。との流言浮説を流されていた。そのため、慶喜は追討諸藩に対し、「無二念、追討皆殺しいたし候様」という指令を発し、「すみやかに賊徒を攻撃せよ」との命令を出したのであった。
             
 「京の一橋慶喜様に逢って訴えたい」と西上してきた天狗勢の耕雲斎は幕府追討軍の総督が皮肉にもその慶喜であったことに愕然とし、慶喜様には弓を引けぬと武装解除と全面降伏を申し出た。 十二月十八日、あいかわらず雪降る日であった。


 十一月一日、茨城を出発した天狗勢は50日余りの行軍のはてに福井・今庄に到着した。 さて、彼らを待ち受ける運命の続きは明日に続くnoda


 



Secret

TrackBackURL
→http://yuusuke320.blog115.fc2.com/tb.php/548-d987b8d8