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 おはようごさいます。 こんにちは。 こんばんは。
 御面倒でもススッーとスクロールして2日前から読んでいただけると幸いなのですが・・・


 加賀藩お預けでは敦賀の本勝寺・本妙寺・長遠寺の三つの寺に収容された。待遇も比較的おだやかで正月一日には屠蘇と餅が配られた。その数823、すなわち八百二十三人が囚われていた。その中には最後まで連れ添った五十七歳の女と一三歳二人・十四歳八人も含まれていた。

 その処置に加賀藩を率いていた慶喜は苦悩していた。 そんな折、一月十四日に幕府の追討軍総括田沼意尊が天狗勢の引渡しを要求し、慶喜は何も考えずあっさり承諾してしまった。一月二十九日に田沼はただちに敦賀に赴き八百十八(5名病死)人を港の鰊蔵を幽閉所とし、16棟に押し込んでしまった。日に二度の握り飯と排泄用の桶、なにより肥料用の鰊の強烈な悪臭に投げ込まれたのであった。
 二月一日、永覚寺を決断所とし幕府の取り調べを始めた。しかし、「結論ありき」の田沼は天狗勢の助命嘆願の動きを封じるため処刑を早く行なおうとした。
 四日に武田耕雲斎以下24人、斬首。十五日135人、十六日102人、十九日75人、二十三日16人。総計352人が首をはねられたが、このような大量斬首は全く前例のない厳しいものだった。
 武田耕雲斎の長男彦衛門の長男金次郎、他130人は小浜藩監視で五島へ遠島刑。同行した農兵130人は水戸藩引渡し。人足172人は無罪放免。十三歳2人と十四歳8人の10人は永源寺住職龍道の嘆願により同寺預けとなった。また、鰊蔵の中で24人が病死していた。

 しかし、処分はこれだけでなかった。
 武田耕雲斎(62)・山国兵部(71)・田丸稲之衛門(60)・藤田小四郎(23)の首は塩漬けにされ、中山道・甲州道から江戸へ。水戸街道を北上して三月二十四日に水戸到着。その日を待っていたかのように耕雲斎の妻(48)と九歳・三歳の息子と長男の倅の十二歳・十歳・八歳の子供達も連座により斬首。他家族等十六人も過酷な牢獄で衰弱死に追いやられたのであった。

 四月七日、元号が慶応とあらためられた。
 六月二十一日、水戸藩引渡しの一行130人は青網のかぶさられた駕籠に入れられ、敦賀を出発。しかし、その移動は過酷で七月十三日に水戸に着いたが道中の駕籠の中で6人が絶命していた。そのまま投獄され、天狗勢に最後まで同行した五十八歳の老女みえは九月十六に息をひきとった。同様に多数の人々が衰弱死していった。

 慶応二年、正月を向かえ、梅が咲き、桜が散った。
 五月二十六日、幕府は遠島刑の武田金次郎以下130人にその罪を許し、小浜藩預けとした。天狗勢に同情的だった小浜藩はただちに鰊蔵から永巌寺に移し、待遇を良くした。風呂・厠から食事・衣服や布団の提供などかなりの緩和であった。
 慶応四年正月、朝廷の命令で水戸への帰還が発せられ、三月には京都に入った。四月二十八日に江戸に入り、五月二十一日に水戸へ向かった。

 慶応が明治に改元されたのは、九月八日であった。



 一橋慶喜とは
  天保8年(1837年)9月29日、徳川斉昭の七男。
     ↓  略  
  元治元年(1864年)
   3月25日、禁裏御守衛総督。禁門の変では、抗戦の指揮。
  慶応2年(1866年)
   7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
   8月20日、徳川宗家相続。
   12月5日、征夷大将軍就任。
  慶応3年(1867年)
   9月、内大臣転任。右近衛大将如元。
   10月14日、大政奉還。
   12月9日、征夷大将軍職辞職。
  慶応4年(1868年)4月11日、解官。
  明治2年(1869年)9月28日、謹慎解除。
     ↓  略
  明治41年(1908年)
   4月30日、大政奉還の功により、勲一等旭日大綬章を受ける。
   12月8日、隠居。
  大正2年(1913年)11月22日(午前4時10分)死去。
     同日、旭日桐花大綬章を授与される。



 どこぞの藩主直系のお坊ちゃん。高速インターの土地の払い下げ売却に絡む裏金疑惑をそのままに中央にシャシャリ出て3カン(ジバン・カンバン・カバン)を背景としてトップに躍り出た。思い通りにならないと「後は良きに計らえ」とサッサと隠遁生活。巧みな資産運用とタップリな年金で悠々自適。そんな浮世暮らしの陶芸家がおります。
そんな彼が明治に入っての慶喜にダブルのはオイラだけであろうか・・・・・



 その後・・・・・
 水戸に帰り着いた武田金次郎は、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、白昼堂々に襲撃・暗殺し、水戸を極度の混乱状態に陥れた。
 維新後、忽然と姿を消し、遙として行方がわからなくなってしまった。 一説によれば、晩年は伊香保温泉で風呂番をしていたと伝えられている。1895年、48歳で生涯を閉じた。





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