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   鉄矢企画 第2弾 「旅バラ・ドキュメンタリー」
              テレビ番組 90分・年4回シリーズ
 武田鉄矢が「旅・歴史・歩」をキーワードに先人の街道を往く。
 
    その ①  「竜馬・脱藩の道 京を目指す」
 土佐藩・郷士の坂本竜馬が脱藩を決意し、京を目指したのは・・歳の時であった。 高知・高松から岡山や大阪へ船が一般的であったが、なぜか? 松山経由で今治から山陽道で京へ登った。(と、オイラは記憶・認識しているが・・・ これからじっくり調べよう)
 今は舗装された道も当時は獣道(チトおおげさか?) 若さゆえの大冒険であったはず。情熱だけの無鉄砲さが彼の支えであった。
  おまけエピソード  鹿児島県の新川渓谷温泉郷上流にある「塩浸温泉」の道路脇に残る露天風呂。お龍さんと日本人初の新婚旅行に来たとされている湯にのんびり浸かる鉄矢であった。 また、竜馬暗殺後のお龍さんの生涯も探り語る。

    その ②  「水戸・天狗党 京の慶喜へ直訴の西上」
 武田耕雲斎に牽きいられた約千名の移動記(詳しくは昨日のブログにて)を歩く。

    その ③  「上杉謙信 将軍・謁見の旅」
 「義」だけで語られる毘沙門天の化身・謙信。しかし、度重なる関東行軍を支える豊かな経済力は越後上布・金山発掘(佐渡金山は江戸初期の大久保長安の開発)にほかなりません。ですので、京都にもその問屋があり、京の情勢は逐一報告が上がってました。信長上洛前に2度も謙信は京へ昇り将軍に謁見しておりました。
 三好勢に嫌がらせ・迫害を受けているグチる将軍に「明日にでも本国から兵を呼び、一戦交えましょうか」と言ったとか。 対して、将軍は
・・・長期戦になったら? 謙信が敗けそうになり越後に帰る時、麻呂も上杉関東管領のように都落ちしなければならないか? 遠く雪深い田舎はイヤジャー ・・・と思い巡らせた将軍は「時期尚早である」と断ったそうな。
 もし、上杉軍・上洛で室町幕府の執権職に付いていたら歴史はどうなっていただろうか?
現に混成信長軍は・・で敗れており、上杉に送った「洛中洛図」には京を闊歩する謙信が描かれております。
  おまけエピソード  「洛中洛図」が狩野永徳の真筆・本物であることが3年前に証明されました。その経緯の裏には無名のマニアの執念・努力があった。 を語る鉄矢。

   その ④ 「島津義弘 東軍の家康本陣・中央突破で薩摩帰還」
 頼朝公以来の名門島津家は血縁争いが絶えなかった。「島津家中興の祖」といわれる忠良は伊作島津の成り上がり者で有力庶家の相州島津の貴久を養嫡子として家名を残してきた。その為、息子たちは団結して薩摩・大隅・日向三国の守護となった兄・義久は内政国主、弟・義弘は外征軍事と二人三脚で合戦に明け暮れていた。 (国をまとめるには絶対専制君主か外への覇権主義かは過去の歴史が証明)
 義弘は島津家の総大将として、伊藤・大友・龍造寺・阿蘇を破り九州統一目前で秀吉の大軍に攻め込まれる。兄・義久の降伏にしぶしぶ同意し、意地と駆引きで薩摩一国のみを安堵された。
秀吉死後の関ヶ原では義理で西軍に就いたが三成の不甲斐なさに嫌気がさし、伏見城に立てこもるである鳥居元忠に助成を申し込むが断られ、しかたなく成り行きのまま西軍陣地に丸に十字の軍旗を立てる。その数1000名。敗色濃い西軍を見届けると「イザ還らん」と号令一発。何を思ったか?家康の本陣目掛け猪突猛進・敵中突破。脇目も振らず戦場離脱。そのまま、薩摩に帰ってしまった。
 「義弘様だけはなんとしても本国へ」の部下の犠牲の上での逃避行。薩摩に還った兵は80人。 世に名高い「島津の退き口」は戦後処理へ大きな賭けであった。すなわち、家康の呼び出しに応じた多くの西軍の大名が申し開きもままならぬまま断絶取り潰しの中、頑として応じず会津の上杉同様不気味な沈黙を守っていた。
すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とした。まさに方便ともいうべき論法を幕府から引き出し、薩摩一国のみの領土安堵を勝ち取った。
 おまけエピソード  毎年10月下旬、鹿児島から日置市の義弘の墓まで「妙円寺詣り」と云う武者コスプレウォークが行われます。 さて、鉄矢はどんなイデタチで参加するのやら・・・


  てなことを夜勤の管理室にてパソコンのキーボードを右手の人指し指でボッチラボッチラと叩いております。




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